Perfume ”GAME” もしくは貧血と観測(マカロニ篇)

 「マカロニ」は温度の歌だ。

 「見上げた空は高くて だんだん手が冷たいの」と、早くも貧血少女は体温の危機にさらされている。危機にさらされているにもかかわらず、「暖めて」というのではなく、「キミの温度はどれくらい?」と聞いて手をつなぐのである。まるで高熱でうなされながら相手の平熱を測ってやるようなケナゲさである。泣かせるのである。
 いやまて、もしかすると、このヒトは、自分の手が冷たくなることはわかっても、それに快不快を感じることができない存在かもしれない。このヒトはもしかして、ヒトではなく機械なのではないか。

 しかし、機械にしては、何度もワタシに同意を求めるのである。

 「ポリリズム」が「だね」から「だ」の歌だとすると、「マカロニ」は、「よね」から「の」の歌だ。
 
 「いいよね」「やわらかいよね」「いつまでもいたいよね」「ちょうどいいよね」と、語り手は次々と控えめな同意を求める。同意を求めれば求めるほど、同意を求めずにはいられない不安が透けて見えるのである。じっさい、不安どころか「わからないことだらけ」なのである。しかし、なぜか安心できる「の」である。安心できるところだけは一人で合点できるのである。
 大切なのはわかることではなく、コントロールである。機械以上平熱未満。それくらいのかんじが、たぶん「ちょうどいい」のである。

 それにしても、この歌でもっとも謎めいているのは、タイトルを含む以下のフレーズだ。
 「あきれた顔がみたくて時々じゃまもするけど 大切なのはマカロニ ぐつぐつ溶けるスープ」
 なぜ、大切なのは、マカロニなのか。マカロニくらいのやわらかさと温度が重要だと言いたいのか。だとしたら、ぐつぐつ溶かさないほうがよいのではないか。なぜアルデンテではないのか。それとも、マカロニはマカロニとして置いておき、スープは別に作っているのか。だとしたら、ここでぐつぐつ溶けているのはなにものなのか。そして詰まるところ、何がどう大切なのか。

 さらに謎めいているのは、冒頭で「見上げる空は高くて」と歌われているように、この歌が、どうも戸外を基調としているらしいことである。だとしたら、この、ぐつぐつ溶けるスープはどこで眺められているのか。戸外で鍋を囲んでパーティーでも催しているのか。
 いや、マカロニはおそらく、ビデオクリップに挿入されたカットのような、一瞬のイメージショットに過ぎず、かくべつ戸外とは関係ないのだろう。
 それが証拠に、「よね」だらけの歌詞の中で、この部分だけが体現止めだ。

 かつて井上陽水は「都会では自殺する若者が増えている」という新聞記事をくつがえし「だけども」と歌った。「だけども問題は今日の雨 傘がない」。
 社会問題よりも恋人との関係を優先するその歌詞には、当時中坊だったわたしですら衝撃を受けたと記憶している。が、よくよく考えてみると、この歌は、何も世間を無視しているわけではない。少なくとも、記事のありかは「今朝来た新聞の片隅に」捉えられている。今朝という時間があって、記事を「片隅」と見る語り手と新聞とのあいだには、確かな距離がある。

 「傘がない」の確かな時空間に比べると、「マカロニ」という歌の淡さがよくわかる。ここでは、もはや、社会対個人というような対比によって今が歌われることはない。そもそも新聞もテレビもなければ、呼びかける者と呼びかけられる者以外の姿も見あたらない。
 「けど」ということばでくつがえされるのは、「あきれた顔がみたくて時々じゃまもするけど」という自身の行為である。行為をコントロールし、温度を保つこと、そのバランスがひたすら目指される。

 しかしそのバランスさえも、「安心できるの〜」と伸ばされるや否や安定を失い、貧血に出会ったように遠く下降していく。再び貧血少女の危機なのである。

 「最後のときがいつかくるならば」とは、これまでの語り手が言おうとしているのか、それとも貧血少女の見た夢なのかはわからない。ともあれ、このあまりにはかないフレーズは、アイドル自身のはかなさを言い当てるかのように際どい。とても恐ろしくてアイドルの声では唄えそうもない。
 しかし、そのきわどさが危うくかわされているように聞こえるのは、その声が、彼女たち自身の声から変調されているからだろう。生身の声を消し、変声された声をあてがわれた彼女たちは、このかつてない希薄な歌詞世界を、アイドルとして生き延びている。そしてその希薄さゆえに、「それまでずっとキミを守りたい」と思わせる。

 「マカロニ」のPVは8mmカメラで撮影されているように見える。ときおり露出過多で撮影された普段着の彼女たちの姿は、粗い粒子となって揮発せんばかりだ。
 大本彩乃はこの映像が撮られつつある時間をなぞるように、彼女の年代には似つかわしくない、Fujicaの古いカメラを構えている。撮っている側も撮られている側も粗い8mmの世界である。

 別々に撮影されていた三人は、やがて川辺に集い、手をつないで踊る。
 手をつないで踊る場面を見て、マリアンヌ・フェイスフルの「Witch's song」のPVを思い出した。デレク・ジャーマンの撮ったそのPVの中で、どこからともなく集った魔女たちは荒涼たる高みで手をつないで踊る。そこは明るい真昼で、魔女たちは手に手に鏡を取り、あちこちから太陽光を反射させ、明滅する合図をこちらに送る。8mmカメラで撮影されたその光は粗い粒子となって見る者の眼を射た。

 「マカロニ」PVの光は柔らかい。おどろおどろしい魔女の世界はアイドルには似合わない。おそらく、これくらいのかんじがちょうどいいのである。わたしは、ちょうどよくないくらいのほうがいいのである。だから残念ながら、このビデオを見て涙を流したりはしないのである。でも、この徹底した希薄さに、ぐっとくるかんじは、なんとなくわかるのである。曲間のトークに入ったときの、三人の意外に押しの強い生声を聞いて、ああ彼女たちも生きていたのかと、奇妙な「安心」さえ感じてしまうのである。

 最初はメンバーの名前にちなんでつけられたという「Perfume」というグループ名は、いまや、空気中で希薄になっていくその存在を名で表すかのようだ。
 「ってどんだけ?」「ツンデレーション」といった、いかにも消費期限の短そうなフレーズをあえてちりばめた歌詞になぜか違和感が感じられないのも、それらが時流に乗るためのことばではなく、むしろ、この現在がはかなく消えてしまうことのしるしだからではないだろうか。

 「ポリリズム」でも「マカロニ」でも、歌は、機械的で温度のないこの世から身を引き剥がし、体温を得ようとする。しかし、引き剥がされた声に、確かな温度があるわけではない。声は、エコーとなり遠く下降しながら、引き剥がした身の置き所さえも揮発させていく。変化だけのある世界を言祝いでいるようでいながら、じつはこの希薄さを支えてあげたいと想う人情を誘っている。

 それにしても、みんな、「マカロニ」にでてくるのがどんなスープだと思って聴いているか。

Perfume ”GAME” もしくは貧血と観測(ポリリズム篇)

 むかしよく貧血で倒れたころ、「ああ、これは気を失うな」とわかる瞬間が、意外に心地よかったのを覚えている。お笑い芸人が階段でつまずきながら用意周到に体の向きを調節するように、薄れ行く意識の中でかろうじて、前後にばったり倒れて致命傷にいたるのはかろうじて避けようとしている。自然と、体は頭を守るように足下から崩れて、その場にへなへなと崩れるような格好になる。
 貧血の刹那、一瞬の観察の中で、意識は、その場に垂直に崩れていく自分からのささやかな幽体離脱を試み、我が身の外から我が身が安全にくずおれる様を見守る。

 PerfumeのGAMEを聴きながら、その、貧血の一瞬を思い出した。

 過去、さまざまなアイドルが愛や恋を歌ってきたが、これほどまでに抽象的な歌詞を歌うアイドルはいなかったのではないだろうか。モーニング娘。がかつて熱をもって「ニッポンの未来」を鼓舞したことは、ここにいたって完全に遠い過去に葬られた感がある。

 中田ヤスタカの書く詞には、内容らしい内容がほとんどない。

 『ポリリズム』では、ぼくやキミの「気持ち」や「想い」や「衝動」や「感動」が盛んに歌われるものの、「とても大事な」はずの中身は歌われない。わたしは長いこと「反動」を「反応」と聞き間違えていたことにCDを買ってから気づいたが、それでもこの曲の印象はまったく変わらない。
 
 もちろん、コンピューターシティでplastic smileでセラミックガールで、変質させられた声とぎくしゃくとした振付をあてがわれている彼女たちは、あらかじめ機械的な演出で売り出されているのだから、抽象的なのは当然ではある。しかし、それだけではない。

 「行動」や「衝動」や「感動」は(「反動」と「反応」がそうであるように)取り替えの聞く便宜的なことばに過ぎず、極端に言えばXやYでもよい。
 歌われているのはむしろ、「行動」や「衝動」や「感動」が「うそみたい」になったり「繰り返し」たり「よみがえる」ことである。感覚の内容ではなく、ある感覚から別の感覚に移動することだけが歌われている。

 となると、どうやら歌詞のポイントは、機械らしさそのものではなく、むしろ移動すること、機械らしさからわずかに身を引き剥がすこと、体温がないことではなく、体温を取り戻すことにあるのではないか。

 たとえば、「ポリリズム」という変則的なリズムにはさほどぐっと来ない音楽ズレした大の大人も、「ああプラスチックみたいな恋『だ』」というフレーズには少なからず心動かされる。少なくともわたしには、この「だ」という言い切りとともに、フラフラと Perfumeファンに落ちていった数万の群衆が見える。

 「まるで恋だね」「うそみたいだね」と、それまでは何度も親しげに問いかけてくる「だね」が、突然「だ」という叙述に変わる。「ああプラスチックみたいな恋『だ』」。そのときに何が起こるのか、しばらく考えてみよう。

 「だね」という語尾は、相手となんらかの体験や知識を共有しているときに用いられる。しかし、中身のわからない「衝動」を、自分ならともかく他人は「あの衝動」と指すことはできない。他人同士で共有できるはずもない。
 そこをあえて「だね」というのだから、この相手は少なくとも他人ではない。かといって、自分ではない。では誰なのか。このような「だね」は、語り手である自分と、聴き手である自分を分裂させて、わたしの中にもう一人のわたしを作り出す。ここにはいない、もう一人の自分が生み出され、わたしはここにはいないわたしに「だね」と言い聞かせる。
 とはいえ、このような、わたしならぬわたしに宛てた「だね」や「よね」といった使い方は、かつて小室哲哉の歌詞にもよく見られたもので、そのこと自体はさほど珍しくない。
 むしろ珍しいのは、「だね」という呼びかけの連続が、突如「だ」と、叙述に裏返るところだ。

 それまでは自分と自分ならぬ者との間で親しく会話を行っていた者が、突然、その関係から身を引き剥がす。自らを叙述の対象として、冷徹に見下ろす観察の視線を得る。
 言葉遣いだけではない。ここまで律儀に拍に合わせて歌われてきた歌は、「恋だ」と歌うとき、「こ・い・だ」とぎくしゃく歌われるのではない。「こ」から「い」に移るとき、メロディは母音の「o」と「i」の間に潜り込み、拍から解放されて「こぉぃだ」と人間らしい響きをまとう。すると声には突然エコーがかかって、三人の「恋だ」に分裂する。それまで伴っていた倍音は失われ、遠く生身の声を響かせて消える。
 プラスティックな関係から微かに生身の感覚が「よみがえ」り、自らを観察する。そのときだけ、自分が生身に帰るような気がする。まるで貧血みたいな恋だ。
 しかし、ようやく観察眼を得たかに見えるこの束の間の生身感覚は、それこそ「ポリリズム」によってはかなくも分断されてしまうのである。

 彼女たちの歌の淡さは、単にこの世の淡さではない。この世から離脱した先もまた淡い。離脱という変化だけが、繰り返し演じられる。作者はそのことを十分自覚して、狙っているらしい。拍の密度を上げては解放し、浮遊感を繰り返し演出するアレンジにも、同じ現象は表れている。

4’32”に起こったこと

予習と初演

 ずいぶん前のことだが、コンサートに行くという知人が「ああ、行く前に歌詞ちゃんと覚えて予習して行かないと」と言うので、驚いたことがある。
 もちろん、何度も繰り返し聞いた曲を聴きにコンサートに行くこともあるけど、あらかじめ知らない曲を聴くのも十分楽しいと思っていたし、歌い手が歌っているのに、わざわざ歌詞を覚えていく必要もない、とそれまで思っていた。
 しかし、知人によれば、コンサートやライブに行くのであれば、アーティストと共に(声には出さなくとも)口ずさむくらい歌を覚えていくのが当然だし、そこまでしないと楽しめない、と言う。
 へえ、とそのときは思ったのだが、どうもこうした意見は昨今、多いらしい。じっさいライブ映像で写っている客席を見ると、多くの人が口をぱくぱくさせている。ミュージシャンのほうも、合いの手をあおっていることが多い。

 そういうものなのか。

 もちろん、「予習」によってのみ意識が届く現象というのはあるだろうし、「予習」がやみくもに悪いとは思わない。しかし、コンサートやライブに常に予習が必要だとしたら、「世界初演」はどうなるのだ。それとも、もしかしたら、この世から「世界初演」は消えたのか。

 そんなことを考えつつ、ジョン・ケージの4'33"のことを考えている。
 ケージの4'33"を、予習なしに、初演として聞く方法について。


予習なしの4'33"

 沈黙に対する聴き手の身構え、という問題を考えるためのケーススタディとして、ケージの4'33"の初演について考えてみよう。

 と書くと、またいわゆるケージ論か、と思われるかもしれないが、ちょっと待っていただきたい。

 いま書こうとしているのは、この曲にケージがどのような意図をこめたか、ではなく、また初演時のピアノ奏者であるデヴィッド・チュードアが、どのような意図のもとに演奏を行ったか、でもない。

 なぜ、作曲者や演奏者の「意図」を問題にしないかと言えば、楽曲を聴く者にとって、そうした意図は、楽曲の構造から事後的に浮かび上がってくるものであって、あらかじめ「意図」を知った上で聴くのではないからだ。
 とくに、ケージからなんらかのヒントを得て、別の作曲家が作曲や演奏を行うときには、作曲家の「意図」よりもまず、楽曲の構造が聴き手にどのような感覚をもたらすかが問題になるだろう。なぜなら、新しい曲を耳にする聴き手は、あらかじめ作者の意図を見聞きしてからその楽曲を聴くわけではないからだ。

 というわけで、ここで考えたいのは、この初演時に、限られた知識しか持ち合わせなかった聴き手の一人が、この曲の終わる直前、つまり4分32秒に、どんな感じだったか、ということだ。
 現在、ケージの4'33"がどんな作品かはすでに知られている。ちょっと音楽に通じている人なら「あー、演奏者がなんにもしないアレでしょ」くらいの知識は持っているだろう。だから、これから4'33"を演奏しますと言われれば、ああ、4'33"演奏者がなんにもしないというパフォーマンスを楽しめば(耐えれば)いいのだな、と納得ずくで心の準備をするだろう。

 しかし、4'33"初演のときの聴衆はそうではなかった。そもそも、それがいつ終わるのか、「沈黙」や「何もしない演奏者」という状態が続くのか、それはいつまでなのかということすら知らなかった。


4'33"の初演はどのようなものだったか

 当時の様子をある程度伝えてくれる資料、 Larry J. Solomonの「The Sounds of Silence」によれば、4分33秒の初演はこんな具合だった。

 まず、配られたプログラムには、「4' 33"」の文字はあった。が、タイトルは「四つの作品 4 pieces」となっていた。これはじつはミスプリントだった。
 ケージは、4'33"の三つの楽章のタイトル(=所用時間)を書き添えて、

4'33"
 30"
  2'23"
   1'40"

 とした。ところが、何かの手違いで、これが三楽章からなる一作品ではなく、四つの作品であると誤解されたらしい。プログラムには以下のように記されていた。


4 pieces ........... John Cage
 4'33"
  30"
   2'23"
    1'40"

 つまり、会場に着き、あらかじめプログラムを読んだ人は、これから四つの作品が演奏されるのだな、と心の準備をしていたことになる。
 プログラムには、内容については何も書かれていない。あるいはそこに記された時間に、曲の構造を左右するような何らかの意味を読み取った勘のいい人がいたかもしれない。それでも、その中身を正しく予測できた人はほとんどいなかっただろう。

 いよいよ演奏の時刻となり、コンサートホールの舞台に、若きピアニストのデヴィッド・チュードア*が現れた。彼は手書きの譜面を手にピアノに歩み寄り、椅子に座って譜面を広げた。

 4'33"は、「演奏者が何もしない曲」や「沈黙の曲」と誤解されることがあるが、そうではない。
 ピアニストは、じっさいにはいくつかの動作を行った。何も知らない聴衆は、この動作を見ながら、曲を聴くことになった。その過程をたどってみよう。

 まずチュードアは、開いているピアノの蓋を閉めた。通常は、ピアノの蓋を閉める必要はないのだから、これがいったい何を意味するのか、聴き手にはにわかにはわからなかったはずだ。会場ホールの裏は森に開けており、戸外からかすかに木の葉ずれの音が漏れてきた。
 チュードアはしばらくじっとしたのち、ピアノの蓋を開けた。そして少し間をとって(どれくらいの間かはわからない)、再びピアノの蓋を閉めた。
 再びチュードアはじっとした。今度は長かった。譜面が数ページあるらしく、チュードアは譜面をめくり、ページをくる音がした。外からは雨の音もした。ひそひそと会場のあちこちからつぶやき声がするようになった。
 しばらくして、またチュードアはピアノの蓋を開けた。そして、再びピアノの蓋を閉めて、じっとしている。
 ケージの回想によれば、演奏中、何人かの客は退席してしまったという。


そして4'32"に

 さて、演奏開始後、途中の間を除いて4分32秒経ったときのことを、想像してみよう。

 このとき、多少好奇心の強い聴き手は、椅子に座りながら何を感じているか。

 会場のあちこちからつぶやき声が聞こえている。ただの事故にしては明らかにおかしい。舞台のピアニストは、すでにピアノの蓋を三度も閉めている。もし、この三度の繰り返しが、この先四度、五度と続くなら、この曲は「そういう曲」であるに違いない。あるいは、これ以上はなく、曲は終わるのかもしれない。いや、本当にこんな風に終わるのか?
 もしかしたらこれだけ待ったあとに、突然、何かとんでもないサプライズがあるのかもしれない。それは何かのメロディなのか、あるいは行為なのか。すでにこれだけ会場を不穏な空気にしている演奏者のことだ、もしかしたらピアノを壊すとか? 
 しかし、いま、演奏者がこうしてじっとしていること、そしてわたしがじっとしていることは、いつ終わるのだろうか? このあとすぐか? それとも、このまま1時間待たされるのか? もし、このままこれが1時間続くとしても、自分はずっと、このままでいるだろうか。それとも、もうあきらめて誰かと同じように席を立とうか。しかし、いま壇上から目を離した隙に、もしとんでもないことが壇上で繰り広げられたらどうする? ここまで待った時間が水の泡ではないか・・・うんぬん。

 会場のざわめきや戸外の音を耳にしながらも、少なくとも、聴き手の意識は、壇上のピアニストに強く惹きつけられ、この次の瞬間に何が起こるのかを見逃すまいとしているはずだ。


怒号と静寂

 4'33"、チュードアは蓋を開けると同時に席を立った。その直後に、客席から怒号がわき起こった、という。

 この瞬間の聴衆の反応は、なかなか興味深い。チュードアは「終わり」とも何とも言わなかった。ピアノの蓋は開けられた。むしろこれから弾くために準備されたとも言える。
 しかし、彼が立ち上がって立ち去りかけると、聴衆はすぐに、怒号をあげるほどはっきりと、曲の終わりが来たことを悟った。
 このことは、聴衆が、いかにチュードアの振る舞いに注意を絞り込んでいたかということがよくわかるエピソードだ。あるいは、退屈を感じていた人も、いぶかしんでいた人も、画期的な演奏に興奮していた人もいただろう。しかし、程度の差はあれ、観客は、チュードアに注意を絞ることで、曲の終わりを敏感に察知し、怒号を上げた。

 このエピソードから、初演時の4'33"の構造は聴衆によって支えられていたことがわかる。ピアノを弾かずに何分もの間過ごした演奏者なのだから、このあと、さらに何か予期せぬ続きのパフォーマンスがあったかもしれないではないか。しかし、聴衆は待たなかった。彼が席を立ったとき、「もう怒号をあげてもいい」とほとんど反射的に理解した。そして、あがった怒号によって、それまでの静寂がくっきりと浮かび上がり、曲の終わりが区切られた。
 あるいは鈍い観客も何人かいたかもしれないが、周りからの怒号によって、これはつまり、曲が終わったということだと気づいただろう。

 何かが始まり、終わるということは、そのように社会的なできごとだ。

 もちろん、ケージにはケージの考えがあっただろう。のちにケージは、4'33"のあいだに聞こえていたであろう戸外の音やさまざまな身体音への注意を喚起させるような発言をしている。

 しかし、少なくとも、そんな予備知識のない聴衆にとって、この曲でいつ音は鳴らされるのか、演奏者はそこにどう関わるのか、という問題は、戸外の音よりもずっと、切実な問題であったに違いない。

 仮に、4'33"初演よりはずっと自由な場、たとえば、「戸外の音を聴きましょう」の会というのがあったとしよう。そこでさえ、おそらくは社会的なやりとりが必要とされる。
 「聴きましょう」と号令をかける者がいて、「そろそろお開きにしましょうか」と声をかける者がいる。そして、それは誰が言ってもいいというわけにはいかない。もしぼくが客としてそんな会に出かけていったとしたら、自分からはけして、「聴きましょう」とか「お開きにしましょう」などとは言わない。それを言うべきホストがいるはずだからだ。
 そして「それを言うべき人」を離れて、この会の始まりと終わりは成立しないだろう。

 始まりと終わりを焦点化するために、人は、いま持続している音や沈黙の先に、この持続を終わらせ、始める身体を、見出そうとする。
 そして、それは、単に音楽会の始まりと終わりだけに当てはまることではない。



なんでもあるYouTubeには、案の定D. Tudor演じる4'33"の映像もある。
このビデオでは、

いまつけているテレビの音量を下げて・・・
回りの物音にじっと耳を傾けてください。

というテロップが流れる。
 もちろん、初演のときには、そんなテロップは流れなかった。

サイン波の切/断、音源と身体

サイン波の切/断

 以前、大友良英さんと、単行本用の対談をしていたときに、Sachiko Mのサイン波のことが話題になって、ぼくはなんとなく、「小さいのにいきなり突き抜けてくる感じ」というような言い方をした。

 とりわけONJOのような大人数の編成で明らかになるのだが、Sachiko Mの音というのは、必ずしも音量が大きくないのに、よく聞こえてくる。というか、音量感が、ない。アンサンブルが佳境に入って、それぞれの音が離合集散をしている最中に「何か忘れちゃいませんか」というように、可聴域ぎりぎりの小さな閃光が、はっきりと届く。

 というと、サイン波があたかも、鳴ったその瞬間から即座に認識されているかのように読めるかもしれないが、そうではない。
 じつをいうと、彼女のサイン波は、鳴った瞬間には、つい聞き逃してしまうことがよくある。じっと耳を澄ましているにもかかわらず聞こえないことすらある。あたかも忍者のように、アンサンブルの中でいつの間にか忍び込んでいたりするのだ。
 にもかかわらず「いきなり突き抜けてくる」とか「はっきり届く」というような言い方をしたくなるのは、いったん認識されるや否や、そこから遡るように、それまで聞いていた時間がさっと塗り替えら得るような印象を与えるからだ。

 では、サイン波はいつ認識されるのか。それは、サイン波の切断の瞬間だ。

 Sachiko Mのサイン波演奏で、もっとも魅力的な部分は、周波数の切り替わりの瞬間にあると思っている。音の高さが不連続に変わる瞬間に、あたかも偏光板を傾けることでそれまで知覚できなかった色彩が表れるように、そこだけ音の色彩がさっと放たれる。

 そのとき、聞き手は、それまで鳴っていたサイン波と、いままさに鳴らされ始めたサイン波とが、ただでたらめにどこかで鳴っているのではなく、過去と未来に切り結ばれた音なのだということを知る。と同時に、それは単にサイン波の切り結びではなく、自分が聞いていた時間が、いま聞きつつある時間と切り結ばれたのだということを知る。

 この、切り結びの発見は、それをもたらした演奏家の発見でもある。この切り結びは、この世界のどこかにある、身体によってもたらされたに違いない、という感じ、「誰が/どこで鳴らしているのか?」という感じが立ち現れる。さきほどまでの音と、この音との間に、身体が発見される。

 ただの断ち切られた点でも、ただの接続点でもなく、これまで過ごしてきた時間への態度を更新させる契機となるような一点。そのような特異点のことを、北里義之氏は高柳昌行のことばを引きながら「切/断」と呼んでいる。

 ただ対象を切ってこちらは無傷でいることではない。切った当人の足場が切られて、すでに立ちゆかなくなっているときに、それでもまだ立っていられるとしたら、その立っていられる場は何なのか。足場をなくしてなお、そこに来歴と行く先を結びつけるものとして、身体が見出される。

 この「切/断」という概念を、音楽活動の大きな流れの中だけでなく、演奏のミクロな場面に見出すべく、ここであえて「サイン波の切/断」という言い回しを使っておこう。



音源と身体

 音の変化の向こう側に特定のモノやヒトを見出すのは、おそらくヒトの持って生まれた認知能力である。そしてこの能力は、無意識のうちに発揮される。

 音源定位、というのは、単に心理学の問題ではない。わたしたちが、鼓膜という薄い膜の振動に過ぎないもののなかから、いかにたやすく、モノやヒトを見出してしまうかという、身体論の問題がそこには横たわっている。

 音源定位の能力は、どうやら、石器時代からある自然の音のみに対して発揮されるのではない。

 かつてこの世にはなかった、電子的な合成音を聞くときでさえ、それを、単なる純音として聞くことは難しい。その純音の発し手のことを、わたしたちはさまざまな手がかりによって推測しようとする。
 それは何も、電子音が明らかに既成の楽器の振る舞いをなぞっているときだけに起こることではない。たとえ、抽象的な規則によって音色や音程、音圧が変わるとしても。いや、そもそも「変わる」という認知が成り立った時点で、それはすでに、でたらめではない、一連なりの音として認知されている。
 あ、音が変わった、という認知が起こったとき、そこでは、変化の主体となる音が認知され(過去に向かって遡られ)、同時に、音源=音の発し手が認知されている。

 では、音が変わらないとき、持続しているときにはどうか。

 ある音、ある沈黙が持続しているときに、聴き手に緊張が生じることはある。そして、それが、いっけんすると人の手を借りない、自動的な方法で生成されているように見えることもある。
 たとえば、ギターが、スピーカーに対してある位置に置かれただけでも、特定のフィードバックがかかり、耳をつんざくほどの轟音がなるだろう。逆に全く音を鳴らさないことで沈黙はたやすく生じるだろう。その意味で、轟音や沈黙は、自動的に生成されうる、機械的な産物でもある。
 しかし、轟音や沈黙に対する聴き手の緊張は単なる音圧の大きさや逆にノイズの少なさに起因するのではないように思う。それがもし、単なる轟音なら、ボリュームを下げに行くか、その場から立ち去ればいいのだし、単なる沈黙なら、おしゃべりによって破ればよい。
 しかし、聴き手は黙って、これらの持続に聞き入る。なぜか。
 それは、いつかこの轟音が(沈黙が)、断ち切られてしまうかもしれない、という予感に対して、断ち切るであろう身体に対して、聴き手が身構えているからではないか。

 言い換えればこういうことだ。

 聴き手の構えと、切断の予感とは、表裏一体であり、切/断をもたらすであろう身体に対する構えが、聴くことを支えているのではないか。そして、この構えは、生の音に対してのみ起こるのではなく、この世にかつて存在しなかった電子音やノイズに対してさえ、起こるのではないか。

指先から群島へ。北里義之「サウンド・アナトミア」

サウンド・アナトミア―高柳昌行の探究と音響の起源 年末に北里義之氏の「サウンド・アナトミア」を読み、以来、この本について折りに触れて考えることがあった。

 本の副題には「高柳昌行の探求と音響の起源」とあるけれども、じつを言えば、ぼく自身は、高柳昌行の音楽の熱心な受け手であったとは言い難い。だから、この本の前半に書かれている数々の論考については、具体的な音楽や活動を思い浮かべながら読むというよりは、あくまでことばで構築されたものの中からなにがしかを汲み取ったというにとどまった。
 そのせいもあって、前半を読んでいる間は、そこでキーワードとして扱われている「汎」あるいは「投射」ということばに、必ずしもピンと来るものがなかったというのが正直なところだ。

 しかし、後半、特に大谷能生の「ジョン・ケージは関係ない」に答える形で、フーコーの「臨床医学の誕生」を軸に書き進められた論考からは一気に読んだ。大谷能生の論は批判的に読み進められているものの、そこでぼくが深く感じ入ったのは、北里氏が大谷氏の「指先」への感覚を繰り返し訪れながらそれを豊かな糧として読み取っているところだった。

 終盤、そこから吉増剛造+今福龍太の群島論にさしかかるところに至って、ようやく、音楽と医療介護を結びつけた、この本の深い企みに気づいた。ともすれば感傷的に受け取られかねない「世界一小さな私」ということばに含まれる「世界」が、群島を経由して注意深くまなざされ/聴き取られ、裏返されようとしている。

 以来、身体を聴くことを契機に、フーコーのまなざし論を視覚の問題から聴くことへとシフトさせたこの本のことについて、あれこれと考えるようになった。

 身体という耳障りのよいことばは、ともすると空疎なお題目になりやすい。しかし、この本は、視覚と聴覚(さらには指先という触覚)の係留点として身体を扱うことで、身体のあり方をより具体的なものにしている。
 さらに、Sachiko Mや中村としまるらの演奏を「音響臓器の内側から、体内を照らし出すようにやってきたサウンド」と捉えるその感覚の先には、単に個人の身体だけでなく、まなざす/まなざされる、聴く/聴かれる、触る/触られるという個人間の関係を開かれているように読める。

 これらの身体論に感じられるスタンスの確かさは、著者が、肉親の介護という生活の中で汲み取ってきたものなのかもしれない。

 このところあまりまとまったことを書く余裕がなかったが、そろそろこの本から得た考えを少しずつ文章にしておこうと思う。

 この先の日記で、音楽の話の頻度が多くなると思うけれども、それは何らかの形で北里氏の論考から得た手がかりを活かす試みになるだろう。身体を係留する手だてがなんとか見つかるように書き進めたい。

名前の消失・名前の召喚 「転校生」覚え書き

 会場を間違えて、富士山の見える山の上の舞台芸術センターに行ってしまった。暮れなずむ紅葉を見ながら蛇行するタクシーに揺られ、駅のそばにある静岡芸術劇場にたどりついたころには「転校生」の開演時間を過ぎていた。

 ロビーに入ると、にぎやかな女子高生たちの声が聞こえる。係の人に誘導されてこっそりと席に着く。

 舞台は階段教室になっており、生徒たちは、委員長の話がひとことあるたびに、あちこちの席でそれぞれかしましく会話をしている。

 そこに、「岡本さん」と呼ばれる婦人が転校生としてやってくる。婦人は、舞台俳優のような張りのある声ではなく、物静かでつつましい声で話し、その声は、転校生である自分が受け入れられるだろうかという物怖じではなく、むしろ、転校生である自分が入ってもこの教室のバランスは崩れないだろうかという配慮を、表しているように聞こえた。
 自分が遅れてきたこともあって、この「岡本さん」に仮託することで、ようやくこの劇を見る落ち着きを得た気がした。じっさい、この劇を通して「岡本さん」の声は、自分の立場に対する不安を口にしているときでも、むしろにぎやかで不安定な生徒に対するいたわりに満ちていた。

 階段教室は舞台に向かって降りており、理科教室の授業になると、生徒たちは広々と開かれた舞台下へと降りることで、教室を出る。無人になった教室の椅子にはそれぞれの生徒のブレザーや鞄や小物が置かれている。

 休み時間になって戻ってきた生徒たちは、親や先生たちの恋愛を取りざたする。おそらく、日曜日のこの舞台を見に、出演者の親や先生たちが詰めかけているはずで、ときおり客席から起こる笑いの質によって、教室でのにぎやかな話は、絵空事ではなくゆるやかに客席に触れているのだという感じが伝わってくる。英語のテストの「ひっかけ問題」に話題が及んだとき、ある生徒が「でも、勉強にひっかけはいらないんじゃね?」と言うと、会場からなぜか感心したような声があがる。それは、単なる機知への反応というよりは、親や先生として、自分の虚を突かれたような反応に聞こえた。
 そんな客席の反応を感じながら、この出演者たちには、みんな名前があるのだなと思う。

 名前のある出演者たちが、食べられる動物の話をしている。食べられる動物に名前はあるだろうか。名前のある動物は食えないと思う。しかし、昨日まで次郎と呼んでいた動物を食べる人もいる。パンダの映像が流れる。そういえば、動物園のパンダには名前がある。

 昼休み、屋上で誰かのハッピーバースデイが歌われる。名前を呼ぶための歌。年齢を数えるときに唱えられる名前。そして事件が起こる。時間を数えながら。
 もし、この教室が平たい平面で、こんな風に坂道のような場所でなかったら、事件は起こらなかったかもしれない。

 事件はひっそりと起こり、その後のやりとりで事件について触れられることはない。が、いつ、誰がその事件のことを語り出すのか、ひりひりするような予感が感じられる。見ているわたしにとって事件は、誰にも気づかれない残響のように響いている。

 傾斜のある教室のあちこちで交わされる会話は、いっそう自然になっていき、台本を感じさせないほどになっていく。出演者の体がほぐれてきたのだろう。「そう!」といいながら相手を指さす体が大きく相手に向かう。体が動くことで、階段の上に、下に、声が無理なく届くようになる。誰かの会話に割って入る声、入ってきた声に応える声の宛先が明確になる。力む声、裏返る声、見下ろす体、振り仰ぐ体に、階段教室を上る体、下りる体に、出演者のふだんの癖や体の使い方がにじみ出す。
 出演者の一人が教室を駆け下りようとして危うく転びそうになる。客席から驚きと安堵の声が上がる。その子が普段、転びそうになるところが劇中に漏れてきたような気がした。あの世がこの世に漏れてくるように。転校生はなぜ「転ぶ」と書くのだろう。

 放課後、一人、また一人と教室を立ち去っていき、やがて教室には誰もいなくなる。椅子は、どれも同じ椅子になる。ブレザーや小物で飾られた椅子を思い出さざるをえない。名前のある椅子とない椅子。

 そこに、「岡本さん」と、忘れ物を取りに来た生徒の一人が戻ってくる。その生徒は、教室の端からひとつひとつの椅子を指しながら、持ち主の名前を呼んでいく。あの事件の子の名前も、さりげなく呼ばれる。「岡本さん」も呼ばれる。

 そして、巨大な天井が、ゆっくりと圧するように降りてくる。

 その、天井の向こうで、ゆっくりと演奏されるピアノに合わせて「せーの!」と声がする。見ると、出演者が全員手をつないで、ジャンプしている。
 なぜジャンプなのか、理由は分からない。ジャンプという方法 how だけがある。揺れる手が拍子を取っている。制服も不揃いで、それぞれの屈託があるであろう出演者たちがひとつの動作をするための、シンプルな方法。
 全員のジャンプが地響きを立てて、そのたびに、スクリーンに出演者の名前が、ひとりずつ召喚される。この世から飛び立ち、再びこの世に生を得る方法。

 出演者の名前と劇中の名前は同じだった。「岡本さん」も。


 終演後、打ち上げに混じらせていただいた。時に声を揃えて盛り上がる女子高生たちの会話は、まるで劇中のように広い館内に響く。
 乾杯のあと、出演者の紹介という段になって、18人の生徒たちは、演出の飴屋さんに全員の紹介をリクエストしていた。「あたしたちの名前全部言えますか!」

HOSE 1stアルバム

 HOSEの1stアルバムが送られてくる。
 メンバーは知り合いだらけだし、これまで何度も演奏は聴いている。が、ここはあえてゆっくりパッケージを開け、居住まいを正して聴く。

 いや、とんでもないアルバムだ、これは。

 一曲めから、やらねばならぬことだけをやっている。

 途中から音量を上げて聴く。三三七拍子のあとに鳴らされる泉くんのベースが、部屋を揺らす。まるで部屋がまるごと巨大な点取り占いと化したように、一度一度異なる託宣に震えている。それがずっと続く。
 常識的に考えれば、この気が遠くなるような繰り返しを傾聴することに、人は耐えられるはずがない。演奏する方だって耐えられるはずがない。あまりの荒行に、トランペットのアンブシェアが崩れていくのがわかる。演奏者自身がおかしさに負けて落ちていく。なのに、三三七拍子だけが残っている。国破れて山河あり。三三七拍子の前に、人の生のなんとはかないことだろうか。

 アルバムは、そのような酷薄さと生のいいわけに満ちており、生活が肯定されようとするときには、なぜか三三七拍子が鳴る。生活が否定されようとするときには、珍妙なリズムが鳴る。立ち上がろうとするときには椅子が鳴る。意外にも美しいメロディが漏れる。それは、人の力ではどうにもならない。
 既成の音楽からすれば、あまりに罰当たりで破壊的な内容ではある。けれども、じつは罰当たりなのは、人の力で音楽はどうにかなると思っている既成の音楽家のほうではないか。

 音楽は人の力ではどうにもならない。
 とんかつは人の力ではどうにもならない。

 とんかつを揚げるのは油。油で揚がるのだ。HOSEのアルバムは、そのことに、とても律儀だと思う。