ラジオ 沼:384 より/接触と帯気 ポニョの歌のこと

 まだ、ポニョ祭りなんですけどね。

 ポニョといえば、あの、頭にこびりつくような歌なんですけれども、ぼくはあれを街のあちこちで聴きながら、途中で歌われている擬音語がどうも聞き取れないんです。

 わくわくちゅゆ、って言ってるのかな。こころも踊るよって言ってるからね。他にも、ぺたぺたなんとか、とか、にーきにきぷんぷん、とか。
 とにかく、口の中がもちゃもちゃにちゃにちゃしてる音なんだけど、あれはなんといってるのか*1。

 舌っ足らずの子の発音って、適切に舌がとがってないから(これ褒め言葉なんですが)、そして唇と舌とのタイミングがかっちりコントロールされてないから、たとえばPという発音をするときに、一発でとーんと行かないように聞こえるんですね。

 ちなみに、日本人のぱぴぷぺぽと英語のPは違っていて、それは空気のためなんですね。日本語のPは唇を破裂させるときに、あまり空気を外に出さない。むしろ唇を離すような感じになってる。ところが、英語のPは空気をまずぱっと外に破裂させるように出して、その後に声帯の震えがくる。だから、英語のPの波形を見ると、空気がまず勢いよくphと出て、その後に声帯の振動を示す振幅の大きな部分が来ます。いっぽう、日本語のPの波形を見ると、Pの始まりとともに声帯が震えているので、頭からばーっと振幅が大きくなっている。唇が離れたらもう母音が鳴っている。
 英語のPに比べると、そもそも日本語のPはぺたぺたにちゃにちゃしてるんです。

 それがもっとはなはだしいのが、ちっちゃい子のぱぴぷぺぽです。
 まだ空気玉がぽーんぽーんと前に出て行かない。ぺたぺた、と発音しても、空気がひとつひとつ適確に空間を保ったままそこから空気を一気に押し出すというようなメリハリに欠けている。
 ちょうど、土踏まずがまだはっきりしなくて、にちゃっと床に貼りついてしまう子どもの足のような、ぺたぺた。体重も軽く、空気をしっかり押し出すことのできない子ども足が、床に接着して離れるときの「ぺ」。

 そういう「ぺ」を考えるときに、ポニョの歌には独特の感じがあると思うんです。

 あの歌って、徹頭徹尾、接触の歌なんですよね。
 まず、歌詞に歌われる行為じたいが接触的である。おててを「つないじゃお」。あしで「かけちゃお」。わあ、手が生えた!足が生えた!っていう、初期衝動に貫かれた歌である。

 考えてみると、サカナっていつも水に触れているから、逆にいうと人間にとっての空気みたいなもので、特別、どこかに触れて生きているという感じを与えるものではない(いや、もしかしたら、サカナは側線から水との接触感を強烈に感じているのかもしれないけどそれは置こう)。
 それに比べると、人間というのは、手とか足とか、やたら突き出た身体部位を持っていて、接触することと離れることの繰り返しを、ずーっとやってる。足がそうです。足は地面に接触して、離れる。「足でかけちゃお」という行為の何がどうかしてるって、せっかく接触した地面から離れちゃうんですよね。接触して離れる。かならずどこかに接しないといけない。かならず接したその場所から離れなければいけない。この酷薄な出会いと別れを繰り返さないと、歩いていくことはできない。
 手もそうです。握ったものをずっと離さないということはありえない。誰かの手を握っても、それはいつか離さないといけない。握った食べ物もいつか離さないといけない。でないと、誰かにあげることができない。チンパンジーは握ったものをなかなか離しませんが、人間は握ったものを他の個体にあげることができちゃう。

 この、接することと離れること、出会うことと別れること、というのが、ポニョの隠れたテーマであって、それが、やたら接触音を盛り込んだあのポニョの歌に現れているということではないかと思います。


1 実際に「崖の上のポニョ」の歌に出てくる擬音は以下の通り。

  • ペータペタ ピョーン ピョン
  • ニーギ ニーギ ブーンブン
  • パークパク チュッギュッ

ラジオ 沼
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