ボヴェ太郎『Texture Regained -記憶の肌理-』@伊丹アイホール

 10/11
 伊丹へ。乗り換えがうまく行けば、彦根から伊丹は1時間40分ほど。
 公演前、ボヴェさん、企画の小倉さんと少しお話してから本番。


文字を読む 踊りに読む

 何もないリノリウムの平台を見下ろすように、数十脚の客席が設えられている。客入れの音楽さえない。客電が落ちると、薄暗がりの中に語り手が現れ、踊り手が現れる。
 黒の衣装をまとったボヴェさんの顔と手の先だけがほのかに白く浮かび上がり、そこで月の光の一節が語られる。月光を乱すまいと物皆静謐を保つ。静かな始まり。

 朗読者がひたすら本を読み上げ、それに合わせてボヴェさんが踊る、という図を想像していたのだが、これがかなり違っていた。
 朗読の渋谷はるかさんは、ただ同じ位置でテキストを読み上げるだけでなく、時には立ち上がり、自ら椅子を持って舞台中央に移動することもある。本から目線をはずして前を見ながら、ときにはテキストを持たずに手ぶらで、ボヴェさんを見ながら語る。派手な演出ではないが、これだけでもずいぶんドラマティックな効果がある。

 そういえば、本を読むとき、わたしは何を見ているのかといえば、文字を見てるのだ。そういう当たり前のことを考えた。いつも本を読むとき、目は忙しく文字をおいかけている。たまにふと目をあげるときはもう、ことばから目は離れて、頭の中でことばの名残りが繰り返されながら、視覚未満のイメージが頭の中で変転している。それはもっぱら、手前勝手な時間の中で起こることだ。

 ところが、この舞台では、読み手はまっすぐに踊り手を見つめながら語ることがある。ことばは明確に声にされながら、目の前には、自分の想念ではコントロールできない、もう一人の踊り手が、その声を聞きながら舞っており、語り手の声はその舞に揺らされている。
 踊り手はごくゆっくりと、足から入った時間を手へと伝わらせていき、踏み出すたびにしなやかな木を生やしていくように、ひとあしひとあし進んでいく。井上究一郎訳のプルーストの、文章の息の長さに沿うように、ゆるやかな緊張がそのひとあしごとに張り詰められていて、じつを言えば見つめるうちに何度か半覚醒に入ってしまい、はっと意識を取り戻したりした。

 ときおり、イメージの強いことばが語られる。
 たとえば、ヤグルマソウ
 そのひととき、踊り手の身体はあたかもヤグルマソウや横たわる女そのものを表しているようにも見えるのだが、ことばと身体との記号的な結びつきは、彼の柔らかい動きによってするりと解かれ、文の抑揚へと委ねられてゆく。
 踊り手は、語り手のうしろにゆっくりと移動していき、デーモンのように両腕を広げる。声の抑揚によってあやつられた踊りが、ことばの意味から離れて、語り手のうしろで禍々しい形をとりつつあるように見える。そして語り手が、「星雲」というとき、踊り手の両腕は、語り手の後ろでまだ広がっており、その腕はあたかも、声によって「星雲」と名指されたことで何かを思い出したように、ゆっくりと、星の集まりのように、胸の前へと閉じられていく。このシークエンスはひときわ美しかった。

 途中、一本の日傘が用いられる。きゃしゃな女性が一人、弱い陽射しからかろうじて身を守ることができそうなその傘には、薄い白布が張られて、ほの暗い照明の中で見ると、これはまるで皮と骨だ。その傘を開いたり閉じたりするときに留め金がかかる音さえ、この静かな舞台では確かに響く。
 その、からからの骸のような日傘を引きずって、踊り手は舞台の上をゆっくりと円を描く。柔らかく動く踊り手の身体には湿度があり、日傘は乾いている。語り手は、植物のように横たわる女のことを語っている。植物のイメージは、声によって湿度を与えられて、それが踊り手の身体に潤いを与え、その潤いがまた、声に湿度を与える。

 約一時間、普段はけして浮かばない連想が起こった。不思議な舞台だった。

足から入る空間、文中の投射

 そのあと、トークショーでボヴェさんと話す。
 彼が「足から入る」「頭と手から抜ける」という言い方をしているのがおもしろい。そこには、足を入れるべき気配が感じられており、その気配に入ったあとに感じられる気配と身体との摩擦や粘性、抵抗があり、そこを手と頭から抜けていくのかな、などと考える。それで、彼の踊りの持つゆっくりとした緊張のことが、少しわかった気がした。
 記憶と傘、というわけで、傘を忘れる話を持ち出したり、こちらの勝手なイメージをぶつけたりしたが、ボヴェさんは、プルーストから得たできごとの事後性の感覚や、彼の文章が持つ時間のことを明快に答えてくれた。聡明な人だ。気が付いたら予定の倍近い時間に。

 あとで、ボヴェさん、渋谷さん、小倉さんと居酒屋で軽く飲み食いする。アスパラガスを注文したら「失われた時を求めて」のアスパラガスの絵の話になり、すると、ボヴェさんが「ブロースフェルトのアスバラガスの写真がいいんですよね」と言う。ベンヤミンの本を読まれたのだろうか。「失われた時を求めて」も全巻読破されたそうで、それが伊達ではないことは、トークのお相手をしていてよくわかった。若いのにたくさん本を読んでおられる。

 プルーストの訳文を読むのに渋谷さんはあれこれ試行錯誤されたそうで、たとえば月光を乱さぬように、と読むとき、その次に、ものみな静謐を守っている感じを出すのに苦労されたという。

 それで、文章の持つ投射性について考える。たぶん、文章の抑揚の中には、あることばの次に、どれだけ息の長い文章が続くかが、ある程度織り込まれており、人は、単語や文節を聞きながら、その先で語られようとすることばの長さを予感し、いま語られたことばのイメージをどこまで先へとのばしていくべきかを推し量っているのではないか。
 おそらく、同じことは踊りにもあって、いま踏み出した足がどれだけの動きを含み、それはどれだけの時間を越えて展げられていこうとしているのかは、その足の踏み出し方に、もう、込められているのでないか。
 もちろんこれらはあくまで投射であって、そこに突然、予期せぬできごとが闖入して、イメージをぐいとたわめてしまうこともあるだろう。しかしその場合には、そのたわみが、抑揚や動きに刻印される。
 声を出し、足を踏み出すことは、そのような、予期とたわみを用意する。

 ボヴェさんと渋谷さんは高校の同級生なんだそうだ。お二人ともまだ二十代後半。これから先、どんな声を投げ、どんな足どりを踏まれるのか、楽しみだ。