月光異聞

 夕暮れどき、鍋尻山から上がった月が大きい。
 ふと、山に近づくほどに月が大きくなるような気がする。山のすぐそばに、人の背丈の倍ほどの月があって、そこに行けば、本当の月の大きさが測れるのではないか。
 などと思うのは、先週見た維新派の舞台の記憶が残っているからなのだろう。


 若尾裕さんの「反ヒューマニズム音楽論」がおもしろい。
 わたしたちが音楽を演奏し、聴くときに無意識のうちにとる構えを、ひとつひとつ解きほぐす試みが続けられつつある。

 第二回は、楽曲の受容のされ方が、いかに時代に依存しているかのお話。
 そこで挙がっているのがベートーヴェンの「月光」の受容史である。
 ヨーロッパでの受容の歴史に続けて、若尾さんは日本での「月光」の受容ぶりにも触れている。

戦前の日本には、どういうわけか修身の教科書に、「月光」が作曲されたときのエピソードが載っている。若尾さんの連載から拝借すると、その内容は以下のようなものだ。

 月明かりの街をベートーヴェンが歩いていると、ピアノの音が聞こえてくる。ふと見ると盲目の少女がピアノを弾いていた。ベートーヴェンはそれに心を動かされ、そのピアノで即興演奏を少女に聴かせ、さらに一目散に家に帰って一気呵成に書き上げたのが《ムーンライト・ソナタ》である、というお話である。これについて團伊玖磨氏が指摘していたことだが、月夜の晩にベートーヴェンがどうにかして人の家に入りこみ、月明かりのなかピアノを弾いている少女が盲目であることを瞬時に判断するなど、どうにも状況に不審さがめだつので、これは誰かの作り話だろうということになっている。

 このくだりを読んで、先日、山口で見た中原中也記念館の展示を思いだした(YCAMの大友さんの展示の合間に、ちょっと覗いたのである)。
 そこにはちょうど、盲目の少女のエピソードを載せた修身の教科書が展示されており、中也の「お道化うた」の草稿が出ていた。
 「お道化うた」というのは、こういう詩だ。

月の光のそのことを、
盲目少女《めくらむすめ》に教へたは、
ベートーベンか、シューバート?
俺の記憶の錯覚が、
今夜とちれてゐるけれど、
ベトちやんだとは思ふけど、
シュバちやんではなかつたらうか?

かすむ街の灯とほに見て、
ウヰンの市《まち》の郊外に、
星も降るよなその夜さ一と夜、
蟲《むし》、草叢《くさむら》にすだく頃、
教師の息子の十三番目、
頸の短いあの男、
盲目少女《めくらむすめ》の手をとるやうに、
ピアノの上に勢ひ込んだ、
汗の出さうなその額、
安物くさいその眼鏡、
丸い背中もいぢらしく
吐き出すやうに弾いたのは、
あれは、シュバちやんではなかつたらうか?

シュバちやんかベトちやんか、
そんなこと、いざ知らね、
今宵星降る東京の夜《よる》、
ビールのコップを傾けて、
月の光を見てあれば、
ベトちやんもシュバちやんも、はやとほに死に、
はやとほに死んだことさへ、
誰知らうことわりもない……

中原中也「お道化うた」1934年)

 語り手が思い出そうとしているのは、まさに、当時の修身の教科書に載っていた「月光」の逸話なのだが、その、お堅い逸話の登場人物を、中也は「ちやん」付けで呼び替えて、諧謔を含ませている。
 さらには、偉人然と描かれがちな作曲家に対し、「頸の短いあの男」「汗の出そうなその額」「安物くさいその眼鏡」「丸い背中もいぢらしく」と、その偶像を引きずり下ろすのだから、読み手はますますもって、反修身的な何かが物語られようとしているのを感じざるをえない。

 では、単に修身のお堅さを茶化しているのかといえば、どうもそうではない。茶化すだけなら、ベートーヴェンをベトちゃんと呼べば済むはずなのに、わざわざ、ベトちゃんに対して、オリジナルにはない「シュバちやん」を導入し、少女の相手候補に挙げているのだから、二角を三角にする理由が、語り手にはあるのだろう。
 さらに語りは、シュバちゃんベトちゃんに思いを馳せておきながら「そんなこと、いざ知らね」と続くのだから、語るに落ちるとはこのことだ。語られているのは、はや遠に死んだことさえ誰知らぬ昔の話だが、そんな昔の話にわざわざ拘泥する理由が、この語り手にはどうやらあるらしい。おそらく、この語り手は、少女の相手がどちらの男性だったかということに深いこだわりを持っているに違いないのである。

 ここで、注目すべきなのは、この語り手が「東京の夜/ビールのコップを傾けて」と、自身のいる場所と行為を記述していることだろう。
 この詩には、二種類の時間関係が埋め込まれている。つまり、

東京→ウィーン もしくは
ベトちやんシュバちやん→ベートーベン、シューベルト

というまなざしをなぞるように

語り手→東京の夜

というまなざしが語られつつあるのである。

 おそらく語り手にも、一人の女性と二人の男性をめぐる、抜き差しならぬ物語があって、その自身の物語を、あたかも東京からいにしえのウィーンを眺めるように、誰知ろうことわりもない遠い未来から、死に絶えたこととして眺め直したいのであろう。

 ここで、中原中也の生涯に通じていれば、長谷川泰子小林秀雄との三角関係が思い浮かぶわけだが、その話はおこう。

 さしあたり、若尾さんの話との関係でおもしろいのは、大作曲家がいきなり貧しい家の少女を訪れるという修身の教科書の不可解なエピソードの中に、ただ泣かせるだけではない、性愛の欲望が埋め込まれていることを中也が読み取った点、そして、そうした読み取りによってエピソードと自身との距離を取り、そのことで、自身をまなざす場所を得た点にある。

 月の光はことほどさように、人心を揺らす。月光の曲もまた、そこに純粋な魂が込められているというよりは、月光のごとく人心を揺らす。揺らすがゆえに流布するのだが、その揺れる理由のほうは、人の心のほうにまかされており、しかもそれは心のままに自由なわけではなく、時代や文化の持つ「生政治」に依存している。月によせる中也の感傷が、いささか時代がかって(それゆえにノスタルジックに)見えるのは、彼の感傷もまた、彼の時代の生政治に依存しているからだろう。

 わたしたち自身もまた、この時代のもつ生政治から逃れられているわけではない。若尾さんも書かれているように「ベートーヴェン以後、クラシック音楽は正しい生き方とつねに重なるものとなっていき、教育や音楽療法のバックボーンとして位置づけられるようになる。」
 だから当面、わたしたちに出来ることは、そのように「逃れがたい」生政治があることに、気づくことだろう。
 もちろん、気づいたとしても、わたしたちは、すべての生政治から離れた高みに立てるわけではない。自身のいる東京を語ろうとする詩人のように、ある種の生政治とわたしたちが取る距離自体が、語り手の持っている生政治を表すことになる。あるいは、そのように自身の生政治を顕わにすることばを紡げる者が詩人になる、というべきだろうか。

 それでも月は見なくちゃね。