友達@世田谷シアタートラム(岡田利規演出)

 11/22のマチネーで、「友達」を観た。

 舞台には、建材用の金属パイプを曲げてつないだだけの、簡素な部屋らしきもの。そこには壁も、床の間仕切りすらなく、二つのドアがなければ、それは部屋とすら判らない。

 冒頭、まだ薄暗い舞台の上を、闖入者たちが現れ、パイプの存在を気にすることなく、思うまま舞台を縦横無尽に歩く。

 この、不思議な導入部は、安部公房の原作と比べると、圧倒的に違っている。
 確かに安部公房の原作には、「ドアを含めて、すべての家具調度が、可能なかぎり単純化され、省略されていることが望ましい」とある。しかし、その一方で、原作には「家具、調度をふくめて、赤っぽい粘土色、もしくは灰色で統一されていること。上手、手前に、台所に通ずるドア。下手、奥に、別の部屋に通ずるドア。下手、手前に、玄関のドア。(中略)玄関わきに、格子状の靴箱。」などと、舞台の配置配色は事細かに記されている。おそらく、「可能なかぎり単純化され、省略されていること」というのは、あくまで抽象性を高めるための指示だったのではないか。

 ところが、この舞台の「部屋」は、抽象どころではない。
 下手と上手のドアには、玄関と室内の意匠の区別すらない。どちらも、プレハブ用の、ホームセンターにありそうなものだ。あとで闖入者が下手から礼儀正しく、「ごめんなさい、すっかり遅くなってしまって」と入ってくるから、かろうじてそこは玄関に見えるのだが、実際には、上手のドアと全く同じである。

 なによりも重大なのは、壁の不在だ。
 この主人公の「部屋」には、壁がない。

 壁があり、玄関があるならば、劇はとりあえず「平凡な男」を主人公として始まるし、そこにやってきたものを「闖入者」として位置づけるところから始めることができる。ところが、この舞台ではもはや、そうした区別すらが無効となっている。
 もう舞台の冒頭から、部屋はあってなきが如きなのだ。

 闖入者達がいったん舞台から降りたあと、舞台が明るくなると、一人の男が、牛の着ぐるみパジャマを来ている。原作ではこの男は「三十一歳、商事会社の課長代理」なのだが、ここではそうした職業を微塵も感じさせない、幼稚で奇矯なかっこうをしている。
 主人公は電話をする。耳障りな音でちっちっちっちと舌打ちのような音。主人公が「違うよ、故障じゃないよ、キッスだよ」と言わなければ、それはキスの音とはとうてい思えない。

 このように、主人公は奇矯な格好をした、耳障りな舌打ちを発する男で、どう考えてもまともじゃないのは主人公であると思わせる演出である。
 どうやらこれは、正常な主人公の感覚が闖入者によって徐々に冒されていくのを楽しむ、という舞台ではない。あらかじめ蹂躙され、部屋の体をなさなくなった場所を、わずかな手がかりをよすがに住みかとしているあわれな男のもとに、やたら正論を吐く人達が訪れる、ということらしい。

 物理的な壁だけではない。舞台設定としての壁すらも、この演出にはない。登場人物たちは、一応ドアを使って出入りすることはあるものの、それは、演劇上のお約束を少しなぞってみた、という程度で、あとはドアにこだわることなく、組まれたパイプの下(そこは「壁」として想定されそうな場所だ)を堂々と通過してしまう。  
 麿赤児にいたってはステッキをふるって暴れ出すと、パイプの下を通過しながらカンカン鳴らしてしまう。こうなるともう、パイプは部屋の枠組みですらない、ただの金属の空洞に過ぎず、それはかき鳴らされるギターと同じく、従順に音で反応する物体に過ぎない。

 こんな風に、部屋であって部屋でない演出だから、最初は、この舞台は一種の「部屋論」なのかなと思って見ていた。部屋がもはや部屋でなくなってしまった者が、どこでどうやって住み為していくかという話。

 が、「部屋論」だけでは説明できないことも起こる。

 本来は壁の中で、役者どうしで交わされるはずの台詞も、壁の中で閉じてはいない。言わずもがなの台詞を言うために、役者はしばしば、舞台の前面に出てきて、いかにも客席に向かって言ってます、という風情で台詞をきめる。それは、客席の共感を呼ぶための素振りというよりは、むしろ、壁を持たぬ世界に生きる人々の異文化的振る舞いに見える。

 この、舞台から客席への非-問いかけは、くどいほど繰り返される。途中、若松武史が観客席へと移動しても、観客との一体感はほとんど起こらない。
 麿赤児の突拍子もない身体動作、木野花若松武史の舞台で叩き上げた発声は、別の舞台であれば、観客を巻き込んで離さないだけの力を持っているはずのものだ。しかし、この演出では、彼らの舞台的動作や声のほとんどは、空振りに終わる。彼らの動きや声が、彼らのホームグラウンドを喚起させるだけの力があるだけに、その空振り度は、ものすごい。今回、この出演メンバーと組むことによって岡田利規氏が得たのもののひとつは、おそらく、この空振りの「大きさ」なのだろう。

 管理人さんがやってくると、スポットライトが当たる。服の色がよくわかる。しかし、管理人さんは、スポットライトを浴びるにふさわしい何かをするわけではない。ここでも空振りなのである。そういえば、スポットライトを投げる場所というのは、舞台とどういう関係にあるのだろう。このスポットライトは、誰が、何の権限によって、投げかけているのだろう。そこは、舞台の声の届く場所なのだろうか。


 どうやら、これは「部屋論」である一方で「舞台論」であり、声の空間論でもあるらしい。

 人と人とが声を交わすことのできる空間はどこにあるのか? たとえば、相手が目に見える場所にいるだけで、その相手は声の受け手であることが保証されるのか? もし目の前にいるだけでは足りないのなら、どうすれば声は届くのか?

 そういうことをこの舞台を見ながら考えていた。

 後半、原作では舞台が公園へと移るはずの場面でも、部屋を表すパイプは取り除かれない。闖入者たちの手によって部屋の下に堂々とベンチが置かれ、部屋内公園ができてしまう。主人公は部屋の中につるされたハンモックにくるまったまま、その、部屋のような公園にやってきた婚約者と、目を合わすことなく語らう。ハンモックの中で主人公が体位を変えると、微かにトーンが変わる。声は眠りの回路を使って通う。おもしろい演出だ。

 しかし、ぼくがいちばんショックを受けたのは、後半、檻に入れられて冷たくなっていく主人公に向かって、次女がマイクで語り出した場面である。
 それまで、挿入歌をカラオケ的に歌うために使われていたマイクが、じつは、声と距離について考えるための道具として扱われていることに気づかされたからだ。
 この、マイクごしの声は檻の中に向けられているらしい。マイクによってのみ、声が届けられる場所が、檻の中なのだ。だとすれば、さっきまで挿入歌をマイクごしに聞いていたわたしたちもまた、檻の中なのだ。

 そういえば、カラオケというのは不思議な場所だ。あの箱のような部屋の中で、ささやきだって聞き届けられるはずの場所で、わたしたちは音楽を拡声し、声を拡声し、わざわざマイク越しに何かをがなっている。あの声は、誰に聞かせるために拡声されているのだろう。あの声が、何らかの通路を通って、どこか知らない檻に通じているのだとしたら、それはどんな檻だろう?

 舞台終盤、もはや主人公が死んでしまったあと、次男は、舞台と客席との接面で後ろ向きに立ち、あたかも何かが聞こえたように、不審そうに振り返る。それがどこから来た声なのか、客席からは察するよすががない。この舞台は、客が察するときに使おうとするよすがをことごとく覆してきた。だから、ここでも、客は空振りを観るしかない。
 呉キリコがセーラー服のまま、舞台前面に立ち、客席に向かって片足をあげて奇妙なポーズをする。しかしこれもまた、客に何かを判らせる、というものではない。

 この舞台を通して一貫してあった唯一の壁は、舞台と客席の間にあったように思う。登場人物のしぐさや台詞は、方向こそ客席に向いていたが、それらはむしろ、客に届けることを拒むかのように、あらかじめ伏線も客への親密なそぶりも注意深く排されていた。(唯一、木野花若松武史が客席に親しげにことばをかける場面が一カ所あったが、あれは、むしろこの劇の中では浮き上がった、インターミッションのように見えた。)

 客に届けることを通してこの世でない誰かにことばを投げるのが既存の舞台だとしたら、この舞台は、客に向きながら客に届けることを拒むことを通して、この世でない誰かへの隘路を築こうとしているように見える。
 名だたる役者を配しているからだろうか、今回の演出では、やや空振りの大きさのほうを強調しすぎている気もした。が、問題は、しぐさやせりふが空振りすること自体ではなく、それがどのような隘路を開けているか、だろう。そして問題はつまるところ、舞台がどうだったかではなく、こちらが舞台から何を持ち帰ったかだ。

 それで、こうやって、舞台を観て持ち帰った考えをつらつら書いている。この文章にだって、どこかに隘路があるはずなのだ。