声の召喚

 オバマの演説を聴いていると、つくづくアメリカの政治というのは弁論術の歴史であったのだなと感じる。
 そして、オバマの巧いところは、そうした弁論の歴史を汲み取り、先人のことばを自分の言葉に重ねているところだ。

 彼が話すと、歴代の大統領や黒人指導者の霊が召喚され、彼の声に重なる。それは、彼が歴史的できごとをコンパクトに言い表し、その頂点で「声」を引用するからだ。声は、そこまで並べ立てられた歴史的場所や時間を引き連れて、いまこの場所にやってくる。
 たとえば先の演説で、公民権運動の象徴的場所を次々と挙げてからキング牧師の「We shall overcome」を引用するくだり。
 人々はオバマを通してキング牧師の声を聞く。そして、牧師が語ったことば、黒人の苦難の歴史を乗り越えるのだ shall overcome という未来形のことばが、いままさに現実となり、黒人大統領の誕生となって、「overcome」されたことを知る。
 「We shall overcome」というの声の指し示している場所と時に、自分たちはいま、居合わせている。キング牧師アラバマから発した声の指す場所と時に、彼が予告した未来に、居合わせている。
 声によって、声の発せられた場所と声の届いた場所とを結ぶ回路が開ける。その回路を通じて、モンゴメリーが、バーミングハムが、セルマが、公民権運動が行われてきた場所の記憶が一気に流入してくる。
 演説しているのはオバマだが、声はもはやオバマだけではない。先人の声、先人の記憶が彼の声に重なり、この場を覆っている。
 このような感覚にひたされた聴衆が、熱狂しないはずがない。

 このような声の歴史を、わたしたちは持ち合わせていない。

 現在の日本では、歴代の政治家の声をこのように召喚する風習はない。安倍晋三が総理大臣になったとき、多くの雑誌が「岸信介のDNA」というような言い方をしたが、彼の口から岸信介の名言がことあるごとに飛び出して、先々代の政治性の輝きを憑依させた、というようなことはなかった。「美しい国」「戦後レジーム(からの脱却)」といったことばを聞いても、いったい誰がかつてそのようなことばを声にしたのかを言い当てるのは難しかった。もちろん、かつて誰かが随筆や文書に書いたことばなのだろうが、それらは、血肉を伴った声として繰り返されてはこなかった。
 そもそも、引用されたとたんに万人の誇りが喚起されるような政治的声というものを、日本は持っていない。
 政治の声は読み上げられる。文書に書かれていることを、文書に書かれていますというトーンで読む。そのことによって、自身の声ではなく、文書に責任を預けることができる。読み上げられることばには、文書の論理だけがあって、声の魂は抜かれている。
 日本で「美しい国」とか「この国の誇り」といった表現が空疎になってしまうのは、おそらく、わたしたちが依るべき過去の声を持たないことが原因なのだろう。

 歴史的経緯はある。敗戦を境に、声は屈曲した。かつてこの国を覆った声は、禍々しい戦いの鼓舞であり命令であった。うかつに声を引用すると、声の主である霊のみならず、多くの異なる霊の怨念を背負ってしまいかねない。
 輝かしい声の歴史ではなく、低く頭を垂れて聞く声の歴史。ただ読み上げることが許される声の歴史。

 このあたりに、玉音放送のことを考えるヒントがあるかもしれない。