ブラスバンドの社会史―軍楽隊から歌伴へ
ブラスバンドの社会史―軍楽隊から歌伴へ (青弓社ライブラリー)
- 作者: 阿部勘一,塚原康子,高沢智昌,細川周平,東谷護
- 出版社/メーカー: 青弓社
- 発売日: 2001/12/01
- メディア: 単行本
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そのバンドは結局教会に行くまでずっと高らかなマリアッチ調の音楽を吹き鳴らし続け、教会の前でもう一度景気よく演奏を行なったあと、楽器をようやく下ろし、神父に迎えられて中に入っていった。
それでバンドの演奏は終わりと思いこんでいたら、そうではなかった。なんと、ミサが始まり、神父の説教が始まると、ちょうどオルガンがやるように、説教の合間にブラスバンドがおごそかな(しかもぺらぺらの)和音をゆるやかに演奏するのだ。信者たちの「アーメン」という唱和にこたえるかのように、それは教会の天井にはねかえって、天使たちの吹き鳴らすラッパのように天から下りてくる。
こんなブラスバンドもありうるんだ。
ぼくのブラスバンドに対する感覚はまったくひっくり返されてしまった。
「ブラスバンドの社会史―軍楽隊から歌伴へ」(2001年、 青弓社/阿部 勘一, 塚原 康子 , 高沢 智昌, 細川 周平, 東谷 護)の細川氏の論考を読みながら、そのことを思いだした。
この本をamazonから取り寄せるとき、ずいぶん評価が厳しいので気になったが、ぼくはなかなかいい本だと思った。
ブラスバンドのようなよく知られた現象を扱うときは、じつはわれわれがそれをいかに知らないか、を明らかにするのが研究の目標となるだろう。そこで、この本の著者たちがとった戦略は、従来「ブラバン」、つまり日本の吹奏楽世界に閉じこめられていたブラスバンドという概念を、日本音楽史や世界史の中に解放してやろうという試みだった。その意味では、この本には、それまであまり語られていなかったブラスバンドの世界史がさまざまな方向から語られており、おもしろく読める。ここ数年のあいだに君が代や軍楽隊に関するさまざまな資料CDも発売されているから、それを聞き合わせることでいっそう興味は高まるだろう。
ただ、この本が違和感をもたらすとすれば、「ブラバン」からブラスバンドを解き放つ試みとは逆に、肝心の「ブラバン」に関する調査があまり為されていない点にあるだろう。唯一、「ブラバン」を中心に扱っている阿部氏の論考も、豊富な「ブラバン」言説を引用しながら、なぜか現実の「ブラバン」は、なにやら既知のこととして扱われており、そのフィールドワークは避けている。
かつてブラスバンドに所属したぼくは、「ブラバン」文化がもつ独特の閉塞性や抑圧性については多少知っているつもりだし、そのうっとうしさもわからなくはない。
けれど、もし、学校における「ブラバン」をあらかじめタコツボ的なものだとか抑圧的なものだとかいう前提のもとに考えを進めるなら、ブラバンについてはいかにもステレオタイプな結論しか得ようがない。じっさいの「ブラバン」は、単純に教育による画一的な場所であるだけでなく、そこには「管楽器やりたいからしかたなく入ってる」的腰掛けの人々もいるだろうし、体育系な人との温度差もあるだろう。そこでおこなわれる活動の中にはさまざまな多様性の芽があるはずだ。
そうした現場で起こっていることが、どのように社会的に構成されているのか、という目配りが、この本では周到に避けられていて、そのことが、ぼくにも実はある、吹奏楽に対する愛憎半ばする鬱陶しさにつながっているようで、息苦しさを感じてしまった。
ちなみに、この本の東谷氏の論考や高澤氏のライフヒストリーはブラスバンド論というよりも、歌謡曲論やビッグバンドジャズ論というべきものだが、他の論とおなじくわくわくしながら読んだ。いまは紅白や演歌系の番組でしか見られないが、かつての歌謡曲番組はビッグバンドなしには成立しなかったし、レコードのアレンジがビッグバンド演奏用に編曲しなおされるのは当たり前だった。そうしたことを改めて思い出した。
それにしても、「ブラバン」は、けっこうおもしろい問題を含んでるなと読みながら考える。日本のブラバンな人々が当たり前のような存在に思ってるアルフレッド・リードとかパーシケッティといった人々が、他の国でどう受容されてるのかとか、日本のミュージック・エイトやヤマハ・ニュー・サウンズ・イン・ブラスや吹奏楽コンクールといった形態はワールドワイドに比較するとどう見えてくるのかとか、いろいろ気になることがたくさんある。いわゆる「クラブ活動」のエスノグラフィーというでかい問題も、そこにはからんでくる。
今度「ブラバン」出身者がゼミに来たら卒論のテーマとして振ってみるか。