ラジオ 沼よりぬき

 こんばんは、ラジオ 沼、かえるさんです。

 えー、サイドウェイズという映画を見てきたんですけれども、これはすごくいい映画でした。もうすぐ日本でも公開されると思うんですけれども、まあ、筋を少し話してもあまり差し障りがない映画だと思うんで、ちょっと内容をお話します。

 簡単に言ってしまうと、北カリフォルニアワイン紀行の映画です。ただ、ワイン紀行っていうと、なんかおしゃれな感じがしてしまうんですが、主人公がこれ、男二人でね。しかも一人は二年前に離婚したバツイチのさえない男なんです。で、もう一人は結婚を一週間後にひかえた男で、この男の独身最後の旅行をってことで、二人がドライブにでかけるわけです。
 バツイチ男のマイルズは教師稼業のかたわら売れない小説(脚本?)を書いているんですが、これが女性を誘うのがからっきし苦手な男で、取り柄といえばワインについてのあふれんばかりの知識と表現のみ。生活はといえば金に詰まって実家の母親のヘソクリをくすねる程度の男です。で、いっぽうの婚前男のジャックはといえば、いささかくたびれた俳優稼業に見切りをつけて花嫁の父親の仕事を手伝うという、まあ一種の諦念と再スタートが入り交じった人生の岐路に立っているわけですが、独身最後だってんで、俳優あがりの滑舌を生かして、もう旅先で女とやり放題。そこで、相方のはしゃぎぶりによってさらに照らし出されるバツイチ男の情けなくもやさぐれた立場ってのがこの映画のみどころになってくるわけです。
 まあその先の筋はおくとして、この映画でおもしろいのは、カリフォルニアの、それも西海岸沿いのドライブだっていうことですね。そしてそれがそのままこの映画の精神風景につながっている。

 まず、マイルズ(これ、いかにもうんざりするようなドライヴにふさわしい名前ですね)の住んでいるのはサン・ディエゴです。サン・ディエゴといえば、西端にして南端、アメリカとメキシコの国境にほど近い町です。
 マイルズは最初に相方ジャックを迎えにロサンジェルスに行くんですが、約束の時間に遅れてしまう。で、ジャックの未来の義父に「まちがってティファナに行ったのかと思ったよ」と軽く皮肉られます。ティファナってのはサンディエゴのすぐ南、国境をはさんでメキシコ側の街。つまり、このさりげないやりとりによって、この映画がじつはアメリカのはじのはじ、どんづまりから始まったんだってことが明らかにされてるわけです。
 サンディエゴからロサンジェルスってそうだな、北に100マイル(ズ)くらいあるでしょうか。ぼくの同居人のアーロンがときどきサンディエゴからロサンジェルスまで車で帰ってきて「ああ疲れた」って言ってますから、けっこうな距離です。この二つの都市を結ぶ5号線というのは退屈きわまりないフリーウェイで、じっさい、あまりの退屈さに、マイルズは運転しながらニューヨーク・タイムズクロスワードを解いちゃったりするわけです。
 で、このロサンジェルスからワイナリーのあるサンタ・バーバラへは101号線っていう海岸に近いハイウェイをぶっとばして行くんですが、さらに北西に100マイルくらいある。つまり、この映画は、カリフォルニア沿岸を縦に移動していく映画なんです。このうんざりするような長い距離の感覚を知っていると、この映画はよりいっそう楽しめます。

 ところで、サンディエゴからサンタ・バーバラにかけてって地域は、海岸沿いにぽつぽつと街があって、あちこちで峡谷が迫っているんですね。そしてぽつぽつある街の背後にも山が迫っている。で、その峡谷や山を越えていくと、そこはモハヴェ砂漠をはじめとする砂漠地帯です。つまり、この映画のルートは、片側に海、片側に山、そして山の背後に砂漠を感じながら、浜風の水分がみるみる乾いていくエリアを飛ばしていくコースなんです。
 この乾燥具合は、当然映画の水分にも影響してくる。主人公のマイルズは、情けないだけでなく、なんとも「乾いて候」なんですね。ダイナーには楊枝を一本一本出すけちくさい、楊枝サーバーが置いてあり、電話機は銀色の鈍い光を放ち、モーテルのツインベッドはテレビと向かい合わせに据えられており、トイレットペーパーは無造作にちぎられて垂れ下がっている。水分は楊枝でせせられ、銀色ではねかえされ、拭き取られている。おきまりの乾いたダイナー、おきまりのモーテルの風景。
 そんな乾燥地帯に奇跡のように現われるのがサンタバーバラのワインカントリー。だからマイルズはワインをがぷがぷ飲まずにいられない。

 この映画を見てもうひとつ思い出した映画があります。それはカリフォルニアじゃなくてポルトガルの映画なんですけれども、マヌエル・デ・オリヴェイラっていう監督の「世界の始まりへの旅」っていう映画です。オリヴェイラ監督って確かもう90歳を越えてたと思いますけれども、まだ現役の監督です。この映画はマストロヤンニの遺作になったことで有名ですね。
 この「世界の始まりへの旅」というのは、とある俳優が監督と一緒に撮影休暇を利用して、自分の父親の故郷を訪ねていく旅の話です。父親はポルトガル出身なんですが、専制時代にフランスに亡命したので、俳優自身にとってはポルトガルは異国の地です。ポルトガルという国は、イベリア半島の西端に、スペインに押されるように縦に伸びている国で、やはり、西は海、そして東は山、その向こうにはスペイン内陸の乾燥地帯が広がっています。ぼくは一度トレドからボルドーへ鉄道で移動したことがありますが、スペインの内陸高地って意外なほど荒涼としているんですね。そして極めつけはフランスとの国境付近で、ここには海沿いに広大な砂漠が広がっています。そこを抜けるとボルドーに出る。つまりワインカントリーがあるわけです。
 ブドウというのは元来、乾燥したところを好む植物で、ブドウの実というのは乾燥地帯の少ない水分を集めたたわわなフルーツなわけです。そしてできるのがワイン。そういえば、ポルトガル沿岸にもやはりポートワイン地帯がある。
 リスボンやこうしたワイン地帯はにぎやかですけれども、暑く乾いた土地でもある。もう夏のリスボンの坂を歩いてると、暑くてすぐへこたれてしまう。こちらのへこたれ具合を見透かすように、あちこちに立ち飲み屋があって、昼間っからセルヴェージャやヴィーノをすすってる人がいるので、こちらもつい誘われるように入ってしまう。
 ぼくはリスボン以外には行ったことはありませんが、この映画を見る限り、どうやらポルトガルの地方のあちこちはリスボンのような都市とは裏腹に空洞化して、さびれているんだろうと思われます。「世界の始まりへの旅」で、にぎやかな都市を出た主人公たちは、こうしたいかにも空洞化した場所へと向かう。でも、そこには奇跡のように花が咲いていて、人が住まっていて、ゆっくりと話される会話によって、どういうわけか映画が水分を取り戻していく。別に華やかな会話があるわけではないし、たとえば主人公の俳優がたずねあてた叔母夫婦とのシーンなどはほとんど暗がりの中で行なわれるんですけれども、それがほとんど、スクリーンを見ているこちらまで届いてきそうな確かな空気を備えていて、その暗がりは深い奥行きとなってふくらんでいく。
 海と砂漠の気配にはさまれた地帯で、ルート root を探してルート route をたどるうちにフルート fruit を探り当てる、まあことば遊びはさておき、サイドウェイズのドライヴのことを考えていると、なぜかポルトガルの映画のことが思い出されたわけです。

 ぼくは、まだ仲俣暁生さんの「極西文学論」というのを読んでなくて、日本に帰ったらぜひ読もうと思っているんですけれど、それは、今言ったような、世界の西の端の感覚が気になるからなんですね。
 「サイドウェイズ」も「世界の始まりへの旅」も一種のロードムービーと言っていいかと思いますが、ロードムービーというのは、ただ車を飛ばせば成り立つわけではない。そこには乾きがあって、フルーツがあって、そしてまた乾きがあって、そういう繰り返しがあって、はじめてロードに出ることのリアリティが生じるわけです。思いがけなくフルーツを探り当てる、そういうロードムービーが、カリフォルニアとポルトガルという海と砂漠にはさまれた地域で可能になったことについて、ぼくはもう少しあれこれ考えたいと思っています。

 いま、サンタバーバラでは、サイドウェイズのおかげでちょっとしたワインブームが起こっていて、映画を見た人が追体験をすべく、ワインカントリーを訪れているそうです。町山智浩さんのアメリカ日記によれば、アカデミー賞脚本賞をとったペインは「脚色賞とか脚本賞は、ハリウッドのメインストリームが受け入れられない反逆児に、これでもやっとくか、という気持ちでおためごかしに与える賞だよ。」とシニカルに答えているそうですが、ロサンジェルスの書店ではサイドウェイズの脚本が平積みになっていて、ぼくの近所のBordersでは、「The Sideways; guide to wine and life」という副読本までおまけにつけるセールをやってました。ワインと人生、とは、なんだかこっぱずかしいサブタイトルですが、この映画は、西海岸の車社会に暮らす人々にとって、いちばん柔らかいところを突かれるような映画なんだろうなと思います。