確かさとせわしなさ、あるいは因果交流電燈

 コグさんからインターバル撮影映像いただく。コグさんの買ったばかりのデジカメについていたインターバル撮影と、彼女の趣味の園芸とが出会ったとき、この驚くべき映像群が誕生した。コグさんはこのところ、ベランダに毎日しかけるために、デジカメを外に持ち歩かないばかりか、わざわざカメラをセットするために帰宅時間を調節する日々だとか。
 そんな、毎日の時間がぎゅっと三十秒に圧縮された映像をいただくわけだから、これは贅沢以外の何ものでもない。
 一枚一枚の静止画像がすでにして情報量満載の高画質なのだが、それを一気に動画で見るわけだから、もうなにしろ、すみずみまで、どこもかしこも動いている。花火のように広がるパンジーの花弁の中の模様が、ちっちゃなプリエッタの茎に生えたうぶ毛の一本一本が、マンモスフラワーのように。そして、こんなに拡大しても、あいかわらず愛らしい。ピアニシモを拡大したものは、ただのフォルテではない。この、ピアニシモをピアニシモたらしめている細部の感覚はなんだろう。

 インターバル撮影が明らかにする、天体の運行、太陽の影、バラの花の確かさ。そして、人々とクレーンの動きのせわしなさ。「わたくしという現象は、仮定された有機交流電燈の ひとつの青い照明です。」という「春と修羅」の感覚は、芽生えの確かさとわたくしのせわしなさの対比から生まれたのではないか。
 花が咲くことの確かさ。花は、その身に集めた水分を花弁のすみずみまで、ゆっくりとゆきわたらせる。だからこそ、花が散ることははかない。うつろうているのはわたしのほうだ。