「バ  ング  ント展」8/15

 朝、東京へ。宿に荷物を置いて、昼過ぎに六本木P-Houseのへ。まださほど人はいなかった。

 白い箱を気にしながらも、まずは奥の展示を落ち着いてみようと思う。床を這う枯れたツタをよけながら、その根元に目をやると、プランタの土からいくつもの植物の芽が出ていた。白い壁、白い箱、持ち主のいない自動車、持ち主のいない土地、いくつもの「消失」が示されているこの空間で、なぜか植物が育っている。消え残ることで消失と生が現れる空間に、いきなり生まれ落ちた色。
 その意外さのせいで、何かこの展示全体に対する感覚が少し変わったように思う。
 前回はできなかったノックを今回はやってみる。誰もがやるように、コツコツと二回。すると、ややあって、コツコツと返ってくる。ああほんとうに返ってきたと思うとともに、そのコツコツのために、中にいるア ヤさんは、ぼくがいま耳をくっつけている壁のすぐそばまで、なるべく音をたてずに手をのばしてきたのだということに気づく。考えてみれば当たり前のことなのだが、それまで、その180×180cm四方の箱は、なんだかそれじたいが生き物めいた感じがして、中でさらに人が、狭いながらもあちこち動き回っているという事態は想像しにくかったのだ。

 最初のとんとんという返答からややあって、再びとんとんと音がして、ちょっとぎょっとする。その二回目のとんとんは、微妙な間を置いたのちに鳴ったので、さっきの返答の続きのようにも思えるし、箱の中からの新たな問いかけのようにも聞こえる。もしぼくがこのまま何も返さなければ、それはさっきの返答に続く、長い答えの一部になるだろう。しかしぼくがとんとんと再び叩けば、それは新たな問いになるだろう。まるで会話分析の隣接ペアのようだ。この微妙なとんとんは、そこに続けて答えを打つかどうかで、意味を変える。意味の始まりは箱の中からなのだが、意味を閉じるのは箱の外なのだ。

 ぼくは結局、やはり返答とも問いかけともつかぬくらいの間をおいて、とんとん、と叩いた。

 それで箱から体を離したところで、スタッフの方に声をかけられる。それは、大友さんのblogで名前をお見かけしていたコロスケさんだった。壁に貼ってあった消失写真とそっくりなのでわかったのだそうだ(この写真には顔がないのだが)。なんでもラジオ 沼の271回を聞いてくださったそうで、初日の話やこの展示の話をいろいろお話しする。すると、あるいはその話が聞こえるのか、箱の中からきゅるきゅると不思議な音がする。箱の耳。なんだか妙な感じだ。
 それからまたしばらくして、ちょっとノックしてみると、今度は「どーん」と音がして、これには心臓が飛び出るかと思った。
 ぼくがノックをするとア ヤさんは動き、箱の中に重力の偏りが発生する。箱は箱という生き物ではなくなり、その中で人が動き回るための器となる。面はただ何かを表し、投射するためのものではなく、そこを境界に接し、動きが動きを呼び、ことばがことばに追いつかなくなるメディアとなる。

 前から考えていたバルトの「明るい部屋」の態度のことを考える。写真をあくまで面に捕捉されたものと考え、それゆえに発生してしまうストゥディウムにこだわりながら、プンクトゥムをとらえるその態度への共感と違和感について。「明るい部屋」の美しさは、面に捕捉された写真にこだわるがゆえの美しさだ。しかし、面がそもそも写真を捕捉しなくなる瞬間についてはどうか。写真と面とのあいだにくさびが打ち込まれるときのストゥディウムの亀裂についてはどうだろう。

 しばらくコロスケさんの横にすわって、入ってくる人たちの様子を見続ける。スタッフは、入るときの様子ですぐわかる。ドアを開けるまでは、いそいそと視線は近くにあるのだが、ドアを開けて白い箱が視界に入ったときに、予期したようなさりげない一瞥をする。はじめての人だと、ここでいったん足が止まって、ぎくしゃくと迂回をする。中身が何かはわからなくても、入り口すぐに立ちふさがっているこの箱は、無意識のうちに立ち止まりと迂回を誘うようになっている。

 ある女性が、箱のそばの説明書きを読んでから、こつこつと箱をノックする。ややあって、こつこつと音が中から返ってくる。それで彼女は、まだ何か腑に落ちない様子で、箱に背を向けて説明書きを読み返す。すると、その背後から、もう一度こつこつという音がする。彼女は明らかにぎょっとした様子で、箱のほうを振り向く。

 離れて見ていると、さきほどの緊密な感じが嘘のように、白い箱は歴然と箱のままにある。そこに人が入っているというよりは、箱じたいがひとつのカタマリのように見える。四隅にコンクリートブロックが置かれ、その上に乗った箱は、地面からも分たれて、たまさかその場所と時間を選んだ物体のように、そこにある。箱の中に感じられた重力の偏りはいまは感じられない。あの箱は、ノックをするときだけ、重力の偏りを発生させるのだ。

 最初に見た植物のせいだろう、箱は、必ずしもよそよそしい存在ではない。次第にこの会場になじみ始めているようにさえ見える。この箱は代謝している。箱の中と植物だけが、この会場の空気を吸っては吐き、代謝を続けている。そして誰かが近づくと、ア ヤさんは箱の代謝から分たれて、自身の音をたてる。

 夕方、いったん会場を出て宿に戻り、出直してくる。

 会場に入るとすでに何人もの人が床にすわりこんでいる。今日は7/29のSachiko M石川高の再演、さらには大友良英のギターソロ。見上げると宇波くんが階上からマイクスタンドを差し出して録音準備をしている。前を見たら八谷和彦さんがいた。話をするのはメガ日記以来だから、十年ぶりくらいかもしれない。
 八谷さんが買ってきたエンシュアリキッドを少しわけてもらう。口に含むと、薄いプリンかミルクセーキのような味。舌触りは、むかし売っていた液状のカロリーメイトに近い。少しなめただけなのに、やけに舌に残る。何か舌の周辺がひりりとするのは、ミネラルか何かが入ってるせいだろうか。
 その後味を残したまま、演奏が始まった。いつ音が始まったかわからないほどか細い音が浮き上がってくる。これは初日の環境ではまず聞こえなかった音だろう。プロジェクタのファンが回っているので、かすかにざあざあと音はしているが、今日は観客のほとんどがライブを聴く気で訪れているせいか、とても静かだ。
 笙の音は、持続音もさることながら、呼気、吸気の途切れる瞬間がとても美しい。スイッチやフェーダーではけしてえられないだろう、まろやかな音の消失。おそらくは1/100秒単位の減衰のしかたに、独特な波形やスペクトルの変化が生じているのだろう。高まった持続音がさっと消されてサイン波がうきあがってくるのは、まるで意識の焦点が切り替わるときの感じがそのまま音になったようだ。
 プロジェクタからは、箱に向けて気象衛星からの映像が投射されている。そこには、日本はない。箱はその一面を、映像のために提供している。そのことで、まるでテレビのように見える。といっても、箱の中に何の投射装置があるわけでもない。笙とサイン波を聞いているうちに、これはもしかすると、いまぼくのいる場所がテレビの中なのではないか、そして箱の中こそがテレビの外側なのではないか、という気がしてくる。この箱は、テレビを四次元で裏返したものであり、ここにいるぼくは、テレビのメカニズムの中にいる。プロジェクタのファンの音はあきらかに機械のリズムで、ごうごうと音をたてる。このメカニズムの中で、笙の音が呼吸をしている。それは箱の中から飛ばされてきた呼吸のように、そこだけが生きもののように響く。

 大友さんのギターソロは、君が代の音名が書かれた升目のひとつを選び、その音に対するコードを弾き、鳴らし終わると鉛筆で升目をひとつ消していくというもの。この、鉛筆で消す、という所作の繰り返しが「消す時間」を浮かび上がらせておもしろい。
 「消失」あるいは「死」というとき、つい無時間のうち、一瞬のうちに起こる現象を想像しがちだ。が、じつは、消えることは、その中にいくつもの部分的な死を含んでいる。その中の一点を指すのはあくまで便宜上のことだ。
 机の上では飴屋さんが作ったメトロノームが二台、違う周期でかちかちと鳴り続けている。一台が演奏の途中でねじがゆるんで止まり、急に雰囲気が変わった。