積木の先の感覚と寝転がること

 学童保育観察。途中でビデオのバッテリが切れ、いい機会なので、ビデオ撮りをあきらめて参与観察に切り替える。ビデオのファインダを気にせずに子供と接すると、ファインダ越しとは違ったことに気づく。あれこれノートを取る。
 たとえば、積み木を箱に片付けるときに、Bちゃんは、必ずしも空白にぴたりと積み木をはめるのではない。空白の上で積み木をいじりながら、あちこちの縁にもっている積み木をかちゃかちゃ当てるうちに、なんとかはめることができる。しかし、それは単に、うまくはめることができない、ということなのだろうか。むしろ、単に視認によってはめるのではなく、手触りによってかちゃかちゃはめていくこと自体が、ひとつの遊びになっているのではないだろうか。
 そんな気がしたのは、Bちゃんがトランポリンの上で横になってけだるそうにめがねをはずしたのに、いざ布団をかけられると、何度も寝返りを打つのを見たときだ。これは、単に眠たいというよりは、トランポリンの上でからだをごろごろさせるのが気持ちよいのではないか。じっさいのところ、Bちゃんはほとんどじっとしていることなく、半ば目を開けた状態でごろごろと寝返りを打ち続け、結局起きあがってしまった。体が何かに触っていること。体が動きさわりかたが次々と変化していることの気持ちよさ。

 今日はAちゃんにやけになつかれたので、初めて本の読み聞かせをする。お気に入りのページがあって、そこまではこちらが手を伸ばすよりも早くどんどんページをめくってしまう。そのくせ、全部読み終わると、また本を叩いて読み聞かせをせがむ。結局、終わりの会の半ばまで、その本を繰り返し読んだ。

 帰りがけにお父さんがやってきて抱き上げると、Aちゃんは激しく泣き出した。まだ遊びたいのだろうか。「いやあああ」と叫ぶのだが、お父さんは構わずぐっと背負う。その所作に迷いがない。
 数分後にはAちゃんはおとなしくなり笑っていた。ああいうやり方は、なかなか保育者にはできない。いやがる子供をなだめたり、泣きやませることはできても、子供のいやがっている(ように見える)状態を無理矢理維持するのはむずかしい。それが、数分後には好転するかもしれないとしても、いまいやがっていることを無理矢理維持するだけの責任は持てない。たった数分を我慢して、今に対して責任をとることすら、なかなか他人にはむずかしいなと思う。おそらくそこが、親の出番なのだろう。