他人を通して感情化する情動

 朝、明らかに二日酔いの頭を支えつつ、服部邸を辞し、彦根へ。うみかぜシンポジウム「「食」と保育」午後の部に滑り込む。
 外山紀子さんの食事場面観察の話は、「今日いっしょに食べようね」という園児のことばをきっかけに、「いっしょに」が意味するものを探るべく、食事場面での着席パターンを探っていくというもの。二歳児では、ほとんどの場合、エピソードにかかわる園児どうしはヨコ並びで、向かいに座った者どうしではエピソードに加わりにくいという。食事というのが、じつは食べるだけでなく、食べ物や器を見ながら話すコミュニケーション場面であるというとらえ方。
 東京地方では「○○もってる人手をあげてー」という発話が園児でなされることがよくあるという。そういえばぼくは関西育ちだが、小さいときに「○○もってるひと手えあげて」という発話をしばしばしていたような気がする。あれはどこからどこへ広がっている文化なのだろうか。

 石黒広昭さんの食行為論は、環境が行為によって変形され、変形された環境が行為を制約するという見方を食の場面に当てはめていくという流れで、なんとも刺激的だった。赤ちゃんのいる家庭によくある、足が長くて小さな背ととアームがついている椅子は、机にくっつけることで、じつはその子ができることを制約する(食事に向かうしかないように体を拘束する)という例を皮切りに、食べることがいかに制度化されているかを問い直す内容。聞いているうちに、「そういえばなぜ、皿からはみ出たものは食べ物ではなくなるのだろう?」「フォークの背にご飯を乗せるかどうか以前に、なぜフォークを使うことが食べることに求められるのだろう?手づかみのほうが簡単なのに」「じつはわれわれは「ガラスの仮面」の金谷さんのごとく、なんでも手づかみで食べてればいいのではないか?」などと、食に対する考えがどんどん緩くなってくる。
 食事中に11ヶ月の乳幼児がテーブルに向かったりのけぞったり手足を浮かしたりと姿勢を変えるところに、石黒さんは「情動変化」を読み取り、「保育士はこうした姿勢変化に敏感に反応している」と言う。それでダマシオの情動論のことを思い出した。

 ダマシオの情動論では、姿勢の変化が基本的情動の重要なあらわれとしてあげられる。情動だから、それは意識の届かない深いところで起こる変化である。つまり、姿勢は情動を漏らす。ダマシオの論では、しかし、そこから先がいささか弱い。情動がインタラクションにどう響くのか、という話がいまひとつ希薄である。
 この赤ちゃんと保育士の例は、まさに情動がコミュニケーションの場面でどう扱われうるかを示している。赤ちゃんの食に対する情動は、姿勢によって漏らされる。赤ちゃんは自分がどんな情動を発しているか、意識しているわけではない。しかし、赤ちゃんの内的状態がどうであれ、保育士は、漏れ来る情動(姿勢)を使って、差し出した食べ物を赤ちゃんの口に近づけたり、さっと退けたりする。
 おそらく、このようなやりとりは、赤ちゃんの食場面だけに特有なものではない。わたしは姿勢、身構えによって、自分の情動を思わず知らず漏らすのだが、いったん姿勢として漏らされた情動は相手から観察可能なものになる。そして相手は、その漏れ来る情動に対してなにがしかの行為を返す。すると、わたしは返ってきたその反応によって、それまで意識していなかった自分の情動を、目に見えるものとして感じることができるようになる。つまり、相手の行為を通して、わたしは自分の情動を、感情化する。

 誰かを通してわたしは情動を感情化する。わたしたちは、感情こそは自分の個人的なできごとだと思っていて、だからこそ、笑うとか泣くとかいうことを自分の体験として日記に書き留めるわけだが、じつのところ、感情とは、他人の行為が投げられたときに起こる産物ではないか。自分の意識せざる情動に対して、誰かが適切なタイミングで行為を投げてくれるときに初めて、わたしは自分の情動を感情として意識的に受け止めることができるのではないか。
 そういえば、映画を見ていてひときわ泣けるのは、単に涙を流している人を見るときよりも、その涙を流している人を見つめる相手がアップになったときのような気がする。あれは、単に泣くという情動に共感しているというよりは、物語によって励起されたわけのわからない情動が、他人の表情によって感情化させられるからではないか。