「音の海」@神戸ジーベックホール

 前にも書いたけど、ぼくは、ミュージシャンによく「大人」を感じることがある。あちこち旅をして、初めて会った人にこちらのやりたいことを伝えて、演じる場所、演じる機材をセッティングし、何人もの(自分を含めた)我の強い面々と一つのバンドやユニットを作り上げる、その積み重ねは、通常の生活では想像つかないような経験値をもたらす。
 この日、関わっていたミュージシャンからは、そうした「大人」を強く感じた。
 十数人の個性の強い障害者さんたちがこの日の主役。一人一人、強い個性を持つ彼らに対して、ときどきは壇上で声をあげながら、音楽の始まりと終わりを指示していく大友さん、素っ頓狂な声から意外なほどの小さな声へとジェットコースターのように客席に音を届かせる加奈さん、気配を消しながら訥々としたトランペットの音のように舞台での態度を伝染させていく江崎さん、タッパの高いところから頼りがいのある睨みをきかせて進行をアナウンスするアリさん。彼らからは、演奏中のみならず、舞台のいろんな場面で、数々のステージで鍛え上げられた本番での体のあり方を感じた。
 そして出演者の一人一人のそばにさりげなく移動して、その姿勢や位置をうまくセッティングしていた沼田さんをはじめスタッフの人たち。
 そのように丁寧に作り上げた場の上で、ときには楽々と、ときには必死で、ときには作られた場を踏み越えて、出演者たちは、じつに思いがけないタイミングで音を出していた。

 そんなわけで、「音の海」にはほんとうにノックアウトされた。
「ラジオ 沼」第304回音の海@ジーベックホール(前)
「ラジオ 沼」第305回音の海@ジーベックホール(後)
 上記の放送でも全然舌足らずで「生き生きと」とか「美しい」とか、いつもなら何かを評するときは避けるはずのことばを使ってしまっているが、この日に起こったことのあまりにたくさんのことを伝えるのは難しい。

 「ラジオ 沼」で話さなかったことをいくつか。  藤本さんのトランペット。ブロウとかロングトーンという考え方ではない、呼吸することと音を鳴らすこと。繰り返しをおそれないこと。呼吸を繰り返すことをおそれる人はいない。

 江崎さん、大友さんとピアノの弾いた子(名前を失念してしまった)の、鍵盤へのあざやかな体重の乗せ方。ときおり、すわらない腰をスタッフに支えられながら、人差し指で(ときには拳で)単音を弾くとき、彼女の上半身が鍵盤に乗って、思いがけなく柔らかな音がする。これをゆっくりと、何度もやる。そのたびに、確かなで柔らかい音がする。

 親御さんが出た二つのピースも、父兄参加、という以上の曲だった。だって、童謡やクラシックを弾くのじゃないのだ。習ったことのない楽器を一音、また一音と弾く。あるいはずらりと立ち並んで、掃除機を高々と掲げる。音楽の時間じゃけして習わないような、知らない人からすれば奇想天外な曲を演じておられるその姿は、少し神妙で、恥じらいがあって、しかし、はしばしで、ただの照れ笑いとは少し違う笑みが顔からこぼれてしまっている。
 あとで沼田さんから聞いた話なのだが、この公演の出演者は、別段、特定の学校や施設に通う仲良しどうしだったわけではなく、昨年の九月に、このプロジェクトで初めて顔を合わせたのだという。
 初めて会う他の出演者とその親御さん、さらにはスタッフや出演者と、はたしてうまくやっていけるかどうか、親御さんには、さまざまな不安もあったのではないか。
 その方々が、子どもをスタッフに預けて、なんとも楽しげに演壇に出ておられる。これはすごいなと思った。とりたてて力むでもなく、そんな風に我が子を誰かに託す。そういう胆力というか落ち着きが、壇上のみなさんの姿から感じられる。陳腐な言い回しだけど、演奏する体は人を表すのだ。

 それにしても、このところずっと、これはと思う場所や時間に出会うと、「託す」ということばが浮かぶ。

 アンコールで、客席から声をかけた野村誠くんが大友さんに呼ばれて前に出た。これはちょっとした事件になった。
 最初はおとなしく端で椅子を鳴らしていた野村くんは、だんだん暴風雨のように野蛮に振る舞い始めた。舞台中央に上がって太鼓を鳴らし、そして、それまで女の子が一生懸命クレヨンで何かを描きつけていた大きな模造紙をひっつかんで破り始めた。これには正直ヒヤリとした。
 この日(そして前日までも)、出演者たちはあちこちで絵を描いており、それは舞台の後ろやホワイエに次々と張り出されていた。「絵を描く」という行為は、いわばこの公演の積み重ねを象徴するような存在になりつつあった。そんな絵の一枚を野村くんが破っている。ああ、やっちゃった。しかも、彼はそれを、マイクに急にがばっとかぶせる。TOAご自慢の高いスピーカーがぼすっと大きな音を立てた。PAの人があわててボリュームを切った。それでも野村くんは止まらない。暴れてる暴れてる。ちぎれた紙が舞う。見ているこちらも生アセが出る。
 で、よく見ると、絵を描いてた女の子がいっしょに紙をばさばさやっている。それを見て、突然、すがすがしい感じがやってきた。
 紙には絵を描くことができる。その紙は破くことができる。破ってもいいんだ。
 野村くんのことだから、紙破りはただのでたらめではなかったのかもしれない。舞台の上で猛烈に暴れている最中に、ものすごい速さで出演者とのやりとりがあって、その高速のやりとりの中で、破る、ということになったのかもしれない。でも、じつのところ、そのやりとりはぼくの席からはわからなかった。
 ただ、この日の確かな公演の最後の最後に、紙がこんな風に破れて宙に舞うなんて、すごいなと思った。それはとても不思議な感情で、うまく説明がつかない。