山下残ダンス公演「船乗りたち」@京都芸術センター

 野村誠くんのblogを読んで、これは見ておこうと思い、京都芸術センターの山下残ダンス公演「船乗りたち」に行った。そして、これは、昨年来、重力について考え続けたことを揺らす、とても貴重な経験だった。

 舞台は丸太でできた筏。この筏は中央に支点を持ち、上に乗るものの位置によってぎしぎしと傾く。そこに一人、また一人と乗っていく。やがて四人の人がこの上でじたばたと動く。簡単に書けば、それだけ。
 ところがこれが、身を乗り出してしまうおもしろさなのだ。じっさい、身を乗り出してしまったのだが、乗り出したときにかすかにきしんだ椅子の音すら、この世のバランスを危うくするのではないかと錯覚するほどで、こちらの体のあらゆる平衡感が試されているかのようだった。
 もちろんわたしはただ観客席にいるだけで、筏の上に乗っているわけではない。なのに、筏の上で動いている四人を見、その丸太がぎしぎし、ばたばたと鳴る音を聞いているだけで、文字通り足下が危うくなると感じる。ゴムをひいた靴底で立つこと、その片足を小さく踏み出すこと。少し浮かせること、膝を曲げること、手をつくこと、むき出しの手で丸太に触ること、丸太の丸さに手を添えること、横たわること、靴底を筏から離すこと、誰かに触ろうとすること、誰かをつかむこと、それらすべての動きが、この世界とこの身とのわずかな足がかり=摩擦にかかわっていることを感じる。そしてそれは我が身だけの所作ではない。我が身を助けようとすることは、他の誰かの足下を危うくする。あるいは逆に平衡をもたらす。姿勢を変えることがすなわち信頼と裏切りとにつながっている。それが、観客席にいながらありありと感じられる。
 ダンサーたちはときに、急速な手の動きを封じるように両腕を交差させる。他者に背を向け、他者を見ることを封じてしまう。それでもなお、立っていられる。立っていられると信頼できるほどに筏は平衡を保っており、だからこそ信頼して自らを封じる。しかし一度誰かが丸太を踏みならしたなら、世界は一変する。一人じっとしていることはできない。四人の身体が一気に加速する。この目この耳に飛び込んできた誰かの身体だけが手がかりだ。対角線を渡ること、四辺を巡ることでこの身とこの世界は、賭けへと跳躍する。世界を変え、なお自分はこの世界に居るにちがいない。彼はわたしを危うくしながら、しかしわたしとともにこの世界にへばりつくことを目指しているにちがいない。それは賭けだ。だからいっそう速く、この世界が動き出すよりも速く対角線をひとまたぎふたまたぎする。彼がこの世界よりも速くわたしと交差すると信じて。でなければもろともに滑り落ちるまでだ。

 きっと太古の昔から、人は人を見、人を聴くことで、その場の危うさ、その場でとるべき身体の柔らかさを直感する力を身につけてきたに違いない。身体が何に抗しているか、自分がその場に投げ込まれたら何に対して身体を支えたらよいか。それが、ただ見るだけ、聴くだけでからだのうちから情動として立ち上がってくる、そのような身体を人は持っている。ただ、そのように誰かを必死で見ることは、めったにない。今日はそのめったにないことが起こった。