名前の消失・名前の召喚 「転校生」覚え書き

 会場を間違えて、富士山の見える山の上の舞台芸術センターに行ってしまった。暮れなずむ紅葉を見ながら蛇行するタクシーに揺られ、駅のそばにある静岡芸術劇場にたどりついたころには「転校生」の開演時間を過ぎていた。

 ロビーに入ると、にぎやかな女子高生たちの声が聞こえる。係の人に誘導されてこっそりと席に着く。

 舞台は階段教室になっており、生徒たちは、委員長の話がひとことあるたびに、あちこちの席でそれぞれかしましく会話をしている。

 そこに、「岡本さん」と呼ばれる婦人が転校生としてやってくる。婦人は、舞台俳優のような張りのある声ではなく、物静かでつつましい声で話し、その声は、転校生である自分が受け入れられるだろうかという物怖じではなく、むしろ、転校生である自分が入ってもこの教室のバランスは崩れないだろうかという配慮を、表しているように聞こえた。
 自分が遅れてきたこともあって、この「岡本さん」に仮託することで、ようやくこの劇を見る落ち着きを得た気がした。じっさい、この劇を通して「岡本さん」の声は、自分の立場に対する不安を口にしているときでも、むしろにぎやかで不安定な生徒に対するいたわりに満ちていた。

 階段教室は舞台に向かって降りており、理科教室の授業になると、生徒たちは広々と開かれた舞台下へと降りることで、教室を出る。無人になった教室の椅子にはそれぞれの生徒のブレザーや鞄や小物が置かれている。

 休み時間になって戻ってきた生徒たちは、親や先生たちの恋愛を取りざたする。おそらく、日曜日のこの舞台を見に、出演者の親や先生たちが詰めかけているはずで、ときおり客席から起こる笑いの質によって、教室でのにぎやかな話は、絵空事ではなくゆるやかに客席に触れているのだという感じが伝わってくる。英語のテストの「ひっかけ問題」に話題が及んだとき、ある生徒が「でも、勉強にひっかけはいらないんじゃね?」と言うと、会場からなぜか感心したような声があがる。それは、単なる機知への反応というよりは、親や先生として、自分の虚を突かれたような反応に聞こえた。
 そんな客席の反応を感じながら、この出演者たちには、みんな名前があるのだなと思う。

 名前のある出演者たちが、食べられる動物の話をしている。食べられる動物に名前はあるだろうか。名前のある動物は食えないと思う。しかし、昨日まで次郎と呼んでいた動物を食べる人もいる。パンダの映像が流れる。そういえば、動物園のパンダには名前がある。

 昼休み、屋上で誰かのハッピーバースデイが歌われる。名前を呼ぶための歌。年齢を数えるときに唱えられる名前。そして事件が起こる。時間を数えながら。
 もし、この教室が平たい平面で、こんな風に坂道のような場所でなかったら、事件は起こらなかったかもしれない。

 事件はひっそりと起こり、その後のやりとりで事件について触れられることはない。が、いつ、誰がその事件のことを語り出すのか、ひりひりするような予感が感じられる。見ているわたしにとって事件は、誰にも気づかれない残響のように響いている。

 傾斜のある教室のあちこちで交わされる会話は、いっそう自然になっていき、台本を感じさせないほどになっていく。出演者の体がほぐれてきたのだろう。「そう!」といいながら相手を指さす体が大きく相手に向かう。体が動くことで、階段の上に、下に、声が無理なく届くようになる。誰かの会話に割って入る声、入ってきた声に応える声の宛先が明確になる。力む声、裏返る声、見下ろす体、振り仰ぐ体に、階段教室を上る体、下りる体に、出演者のふだんの癖や体の使い方がにじみ出す。
 出演者の一人が教室を駆け下りようとして危うく転びそうになる。客席から驚きと安堵の声が上がる。その子が普段、転びそうになるところが劇中に漏れてきたような気がした。あの世がこの世に漏れてくるように。転校生はなぜ「転ぶ」と書くのだろう。

 放課後、一人、また一人と教室を立ち去っていき、やがて教室には誰もいなくなる。椅子は、どれも同じ椅子になる。ブレザーや小物で飾られた椅子を思い出さざるをえない。名前のある椅子とない椅子。

 そこに、「岡本さん」と、忘れ物を取りに来た生徒の一人が戻ってくる。その生徒は、教室の端からひとつひとつの椅子を指しながら、持ち主の名前を呼んでいく。あの事件の子の名前も、さりげなく呼ばれる。「岡本さん」も呼ばれる。

 そして、巨大な天井が、ゆっくりと圧するように降りてくる。

 その、天井の向こうで、ゆっくりと演奏されるピアノに合わせて「せーの!」と声がする。見ると、出演者が全員手をつないで、ジャンプしている。
 なぜジャンプなのか、理由は分からない。ジャンプという方法 how だけがある。揺れる手が拍子を取っている。制服も不揃いで、それぞれの屈託があるであろう出演者たちがひとつの動作をするための、シンプルな方法。
 全員のジャンプが地響きを立てて、そのたびに、スクリーンに出演者の名前が、ひとりずつ召喚される。この世から飛び立ち、再びこの世に生を得る方法。

 出演者の名前と劇中の名前は同じだった。「岡本さん」も。


 終演後、打ち上げに混じらせていただいた。時に声を揃えて盛り上がる女子高生たちの会話は、まるで劇中のように広い館内に響く。
 乾杯のあと、出演者の紹介という段になって、18人の生徒たちは、演出の飴屋さんに全員の紹介をリクエストしていた。「あたしたちの名前全部言えますか!」