サイン波の切/断、音源と身体

サイン波の切/断

 以前、大友良英さんと、単行本用の対談をしていたときに、Sachiko Mのサイン波のことが話題になって、ぼくはなんとなく、「小さいのにいきなり突き抜けてくる感じ」というような言い方をした。

 とりわけONJOのような大人数の編成で明らかになるのだが、Sachiko Mの音というのは、必ずしも音量が大きくないのに、よく聞こえてくる。というか、音量感が、ない。アンサンブルが佳境に入って、それぞれの音が離合集散をしている最中に「何か忘れちゃいませんか」というように、可聴域ぎりぎりの小さな閃光が、はっきりと届く。

 というと、サイン波があたかも、鳴ったその瞬間から即座に認識されているかのように読めるかもしれないが、そうではない。
 じつをいうと、彼女のサイン波は、鳴った瞬間には、つい聞き逃してしまうことがよくある。じっと耳を澄ましているにもかかわらず聞こえないことすらある。あたかも忍者のように、アンサンブルの中でいつの間にか忍び込んでいたりするのだ。
 にもかかわらず「いきなり突き抜けてくる」とか「はっきり届く」というような言い方をしたくなるのは、いったん認識されるや否や、そこから遡るように、それまで聞いていた時間がさっと塗り替えら得るような印象を与えるからだ。

 では、サイン波はいつ認識されるのか。それは、サイン波の切断の瞬間だ。

 Sachiko Mのサイン波演奏で、もっとも魅力的な部分は、周波数の切り替わりの瞬間にあると思っている。音の高さが不連続に変わる瞬間に、あたかも偏光板を傾けることでそれまで知覚できなかった色彩が表れるように、そこだけ音の色彩がさっと放たれる。

 そのとき、聞き手は、それまで鳴っていたサイン波と、いままさに鳴らされ始めたサイン波とが、ただでたらめにどこかで鳴っているのではなく、過去と未来に切り結ばれた音なのだということを知る。と同時に、それは単にサイン波の切り結びではなく、自分が聞いていた時間が、いま聞きつつある時間と切り結ばれたのだということを知る。

 この、切り結びの発見は、それをもたらした演奏家の発見でもある。この切り結びは、この世界のどこかにある、身体によってもたらされたに違いない、という感じ、「誰が/どこで鳴らしているのか?」という感じが立ち現れる。さきほどまでの音と、この音との間に、身体が発見される。

 ただの断ち切られた点でも、ただの接続点でもなく、これまで過ごしてきた時間への態度を更新させる契機となるような一点。そのような特異点のことを、北里義之氏は高柳昌行のことばを引きながら「切/断」と呼んでいる。

 ただ対象を切ってこちらは無傷でいることではない。切った当人の足場が切られて、すでに立ちゆかなくなっているときに、それでもまだ立っていられるとしたら、その立っていられる場は何なのか。足場をなくしてなお、そこに来歴と行く先を結びつけるものとして、身体が見出される。

 この「切/断」という概念を、音楽活動の大きな流れの中だけでなく、演奏のミクロな場面に見出すべく、ここであえて「サイン波の切/断」という言い回しを使っておこう。



音源と身体

 音の変化の向こう側に特定のモノやヒトを見出すのは、おそらくヒトの持って生まれた認知能力である。そしてこの能力は、無意識のうちに発揮される。

 音源定位、というのは、単に心理学の問題ではない。わたしたちが、鼓膜という薄い膜の振動に過ぎないもののなかから、いかにたやすく、モノやヒトを見出してしまうかという、身体論の問題がそこには横たわっている。

 音源定位の能力は、どうやら、石器時代からある自然の音のみに対して発揮されるのではない。

 かつてこの世にはなかった、電子的な合成音を聞くときでさえ、それを、単なる純音として聞くことは難しい。その純音の発し手のことを、わたしたちはさまざまな手がかりによって推測しようとする。
 それは何も、電子音が明らかに既成の楽器の振る舞いをなぞっているときだけに起こることではない。たとえ、抽象的な規則によって音色や音程、音圧が変わるとしても。いや、そもそも「変わる」という認知が成り立った時点で、それはすでに、でたらめではない、一連なりの音として認知されている。
 あ、音が変わった、という認知が起こったとき、そこでは、変化の主体となる音が認知され(過去に向かって遡られ)、同時に、音源=音の発し手が認知されている。

 では、音が変わらないとき、持続しているときにはどうか。

 ある音、ある沈黙が持続しているときに、聴き手に緊張が生じることはある。そして、それが、いっけんすると人の手を借りない、自動的な方法で生成されているように見えることもある。
 たとえば、ギターが、スピーカーに対してある位置に置かれただけでも、特定のフィードバックがかかり、耳をつんざくほどの轟音がなるだろう。逆に全く音を鳴らさないことで沈黙はたやすく生じるだろう。その意味で、轟音や沈黙は、自動的に生成されうる、機械的な産物でもある。
 しかし、轟音や沈黙に対する聴き手の緊張は単なる音圧の大きさや逆にノイズの少なさに起因するのではないように思う。それがもし、単なる轟音なら、ボリュームを下げに行くか、その場から立ち去ればいいのだし、単なる沈黙なら、おしゃべりによって破ればよい。
 しかし、聴き手は黙って、これらの持続に聞き入る。なぜか。
 それは、いつかこの轟音が(沈黙が)、断ち切られてしまうかもしれない、という予感に対して、断ち切るであろう身体に対して、聴き手が身構えているからではないか。

 言い換えればこういうことだ。

 聴き手の構えと、切断の予感とは、表裏一体であり、切/断をもたらすであろう身体に対する構えが、聴くことを支えているのではないか。そして、この構えは、生の音に対してのみ起こるのではなく、この世にかつて存在しなかった電子音やノイズに対してさえ、起こるのではないか。