4’32”に起こったこと

予習と初演

 ずいぶん前のことだが、コンサートに行くという知人が「ああ、行く前に歌詞ちゃんと覚えて予習して行かないと」と言うので、驚いたことがある。
 もちろん、何度も繰り返し聞いた曲を聴きにコンサートに行くこともあるけど、あらかじめ知らない曲を聴くのも十分楽しいと思っていたし、歌い手が歌っているのに、わざわざ歌詞を覚えていく必要もない、とそれまで思っていた。
 しかし、知人によれば、コンサートやライブに行くのであれば、アーティストと共に(声には出さなくとも)口ずさむくらい歌を覚えていくのが当然だし、そこまでしないと楽しめない、と言う。
 へえ、とそのときは思ったのだが、どうもこうした意見は昨今、多いらしい。じっさいライブ映像で写っている客席を見ると、多くの人が口をぱくぱくさせている。ミュージシャンのほうも、合いの手をあおっていることが多い。

 そういうものなのか。

 もちろん、「予習」によってのみ意識が届く現象というのはあるだろうし、「予習」がやみくもに悪いとは思わない。しかし、コンサートやライブに常に予習が必要だとしたら、「世界初演」はどうなるのだ。それとも、もしかしたら、この世から「世界初演」は消えたのか。

 そんなことを考えつつ、ジョン・ケージの4'33"のことを考えている。
 ケージの4'33"を、予習なしに、初演として聞く方法について。


予習なしの4'33"

 沈黙に対する聴き手の身構え、という問題を考えるためのケーススタディとして、ケージの4'33"の初演について考えてみよう。

 と書くと、またいわゆるケージ論か、と思われるかもしれないが、ちょっと待っていただきたい。

 いま書こうとしているのは、この曲にケージがどのような意図をこめたか、ではなく、また初演時のピアノ奏者であるデヴィッド・チュードアが、どのような意図のもとに演奏を行ったか、でもない。

 なぜ、作曲者や演奏者の「意図」を問題にしないかと言えば、楽曲を聴く者にとって、そうした意図は、楽曲の構造から事後的に浮かび上がってくるものであって、あらかじめ「意図」を知った上で聴くのではないからだ。
 とくに、ケージからなんらかのヒントを得て、別の作曲家が作曲や演奏を行うときには、作曲家の「意図」よりもまず、楽曲の構造が聴き手にどのような感覚をもたらすかが問題になるだろう。なぜなら、新しい曲を耳にする聴き手は、あらかじめ作者の意図を見聞きしてからその楽曲を聴くわけではないからだ。

 というわけで、ここで考えたいのは、この初演時に、限られた知識しか持ち合わせなかった聴き手の一人が、この曲の終わる直前、つまり4分32秒に、どんな感じだったか、ということだ。
 現在、ケージの4'33"がどんな作品かはすでに知られている。ちょっと音楽に通じている人なら「あー、演奏者がなんにもしないアレでしょ」くらいの知識は持っているだろう。だから、これから4'33"を演奏しますと言われれば、ああ、4'33"演奏者がなんにもしないというパフォーマンスを楽しめば(耐えれば)いいのだな、と納得ずくで心の準備をするだろう。

 しかし、4'33"初演のときの聴衆はそうではなかった。そもそも、それがいつ終わるのか、「沈黙」や「何もしない演奏者」という状態が続くのか、それはいつまでなのかということすら知らなかった。


4'33"の初演はどのようなものだったか

 当時の様子をある程度伝えてくれる資料、 Larry J. Solomonの「The Sounds of Silence」によれば、4分33秒の初演はこんな具合だった。

 まず、配られたプログラムには、「4' 33"」の文字はあった。が、タイトルは「四つの作品 4 pieces」となっていた。これはじつはミスプリントだった。
 ケージは、4'33"の三つの楽章のタイトル(=所用時間)を書き添えて、

4'33"
 30"
  2'23"
   1'40"

 とした。ところが、何かの手違いで、これが三楽章からなる一作品ではなく、四つの作品であると誤解されたらしい。プログラムには以下のように記されていた。


4 pieces ........... John Cage
 4'33"
  30"
   2'23"
    1'40"

 つまり、会場に着き、あらかじめプログラムを読んだ人は、これから四つの作品が演奏されるのだな、と心の準備をしていたことになる。
 プログラムには、内容については何も書かれていない。あるいはそこに記された時間に、曲の構造を左右するような何らかの意味を読み取った勘のいい人がいたかもしれない。それでも、その中身を正しく予測できた人はほとんどいなかっただろう。

 いよいよ演奏の時刻となり、コンサートホールの舞台に、若きピアニストのデヴィッド・チュードア*が現れた。彼は手書きの譜面を手にピアノに歩み寄り、椅子に座って譜面を広げた。

 4'33"は、「演奏者が何もしない曲」や「沈黙の曲」と誤解されることがあるが、そうではない。
 ピアニストは、じっさいにはいくつかの動作を行った。何も知らない聴衆は、この動作を見ながら、曲を聴くことになった。その過程をたどってみよう。

 まずチュードアは、開いているピアノの蓋を閉めた。通常は、ピアノの蓋を閉める必要はないのだから、これがいったい何を意味するのか、聴き手にはにわかにはわからなかったはずだ。会場ホールの裏は森に開けており、戸外からかすかに木の葉ずれの音が漏れてきた。
 チュードアはしばらくじっとしたのち、ピアノの蓋を開けた。そして少し間をとって(どれくらいの間かはわからない)、再びピアノの蓋を閉めた。
 再びチュードアはじっとした。今度は長かった。譜面が数ページあるらしく、チュードアは譜面をめくり、ページをくる音がした。外からは雨の音もした。ひそひそと会場のあちこちからつぶやき声がするようになった。
 しばらくして、またチュードアはピアノの蓋を開けた。そして、再びピアノの蓋を閉めて、じっとしている。
 ケージの回想によれば、演奏中、何人かの客は退席してしまったという。


そして4'32"に

 さて、演奏開始後、途中の間を除いて4分32秒経ったときのことを、想像してみよう。

 このとき、多少好奇心の強い聴き手は、椅子に座りながら何を感じているか。

 会場のあちこちからつぶやき声が聞こえている。ただの事故にしては明らかにおかしい。舞台のピアニストは、すでにピアノの蓋を三度も閉めている。もし、この三度の繰り返しが、この先四度、五度と続くなら、この曲は「そういう曲」であるに違いない。あるいは、これ以上はなく、曲は終わるのかもしれない。いや、本当にこんな風に終わるのか?
 もしかしたらこれだけ待ったあとに、突然、何かとんでもないサプライズがあるのかもしれない。それは何かのメロディなのか、あるいは行為なのか。すでにこれだけ会場を不穏な空気にしている演奏者のことだ、もしかしたらピアノを壊すとか? 
 しかし、いま、演奏者がこうしてじっとしていること、そしてわたしがじっとしていることは、いつ終わるのだろうか? このあとすぐか? それとも、このまま1時間待たされるのか? もし、このままこれが1時間続くとしても、自分はずっと、このままでいるだろうか。それとも、もうあきらめて誰かと同じように席を立とうか。しかし、いま壇上から目を離した隙に、もしとんでもないことが壇上で繰り広げられたらどうする? ここまで待った時間が水の泡ではないか・・・うんぬん。

 会場のざわめきや戸外の音を耳にしながらも、少なくとも、聴き手の意識は、壇上のピアニストに強く惹きつけられ、この次の瞬間に何が起こるのかを見逃すまいとしているはずだ。


怒号と静寂

 4'33"、チュードアは蓋を開けると同時に席を立った。その直後に、客席から怒号がわき起こった、という。

 この瞬間の聴衆の反応は、なかなか興味深い。チュードアは「終わり」とも何とも言わなかった。ピアノの蓋は開けられた。むしろこれから弾くために準備されたとも言える。
 しかし、彼が立ち上がって立ち去りかけると、聴衆はすぐに、怒号をあげるほどはっきりと、曲の終わりが来たことを悟った。
 このことは、聴衆が、いかにチュードアの振る舞いに注意を絞り込んでいたかということがよくわかるエピソードだ。あるいは、退屈を感じていた人も、いぶかしんでいた人も、画期的な演奏に興奮していた人もいただろう。しかし、程度の差はあれ、観客は、チュードアに注意を絞ることで、曲の終わりを敏感に察知し、怒号を上げた。

 このエピソードから、初演時の4'33"の構造は聴衆によって支えられていたことがわかる。ピアノを弾かずに何分もの間過ごした演奏者なのだから、このあと、さらに何か予期せぬ続きのパフォーマンスがあったかもしれないではないか。しかし、聴衆は待たなかった。彼が席を立ったとき、「もう怒号をあげてもいい」とほとんど反射的に理解した。そして、あがった怒号によって、それまでの静寂がくっきりと浮かび上がり、曲の終わりが区切られた。
 あるいは鈍い観客も何人かいたかもしれないが、周りからの怒号によって、これはつまり、曲が終わったということだと気づいただろう。

 何かが始まり、終わるということは、そのように社会的なできごとだ。

 もちろん、ケージにはケージの考えがあっただろう。のちにケージは、4'33"のあいだに聞こえていたであろう戸外の音やさまざまな身体音への注意を喚起させるような発言をしている。

 しかし、少なくとも、そんな予備知識のない聴衆にとって、この曲でいつ音は鳴らされるのか、演奏者はそこにどう関わるのか、という問題は、戸外の音よりもずっと、切実な問題であったに違いない。

 仮に、4'33"初演よりはずっと自由な場、たとえば、「戸外の音を聴きましょう」の会というのがあったとしよう。そこでさえ、おそらくは社会的なやりとりが必要とされる。
 「聴きましょう」と号令をかける者がいて、「そろそろお開きにしましょうか」と声をかける者がいる。そして、それは誰が言ってもいいというわけにはいかない。もしぼくが客としてそんな会に出かけていったとしたら、自分からはけして、「聴きましょう」とか「お開きにしましょう」などとは言わない。それを言うべきホストがいるはずだからだ。
 そして「それを言うべき人」を離れて、この会の始まりと終わりは成立しないだろう。

 始まりと終わりを焦点化するために、人は、いま持続している音や沈黙の先に、この持続を終わらせ、始める身体を、見出そうとする。
 そして、それは、単に音楽会の始まりと終わりだけに当てはまることではない。



なんでもあるYouTubeには、案の定D. Tudor演じる4'33"の映像もある。
このビデオでは、

いまつけているテレビの音量を下げて・・・
回りの物音にじっと耳を傾けてください。

というテロップが流れる。
 もちろん、初演のときには、そんなテロップは流れなかった。