Perfume ”GAME” もしくは貧血と観測(ポリリズム篇)

 むかしよく貧血で倒れたころ、「ああ、これは気を失うな」とわかる瞬間が、意外に心地よかったのを覚えている。お笑い芸人が階段でつまずきながら用意周到に体の向きを調節するように、薄れ行く意識の中でかろうじて、前後にばったり倒れて致命傷にいたるのはかろうじて避けようとしている。自然と、体は頭を守るように足下から崩れて、その場にへなへなと崩れるような格好になる。
 貧血の刹那、一瞬の観察の中で、意識は、その場に垂直に崩れていく自分からのささやかな幽体離脱を試み、我が身の外から我が身が安全にくずおれる様を見守る。

 PerfumeのGAMEを聴きながら、その、貧血の一瞬を思い出した。

 過去、さまざまなアイドルが愛や恋を歌ってきたが、これほどまでに抽象的な歌詞を歌うアイドルはいなかったのではないだろうか。モーニング娘。がかつて熱をもって「ニッポンの未来」を鼓舞したことは、ここにいたって完全に遠い過去に葬られた感がある。

 中田ヤスタカの書く詞には、内容らしい内容がほとんどない。

 『ポリリズム』では、ぼくやキミの「気持ち」や「想い」や「衝動」や「感動」が盛んに歌われるものの、「とても大事な」はずの中身は歌われない。わたしは長いこと「反動」を「反応」と聞き間違えていたことにCDを買ってから気づいたが、それでもこの曲の印象はまったく変わらない。
 
 もちろん、コンピューターシティでplastic smileでセラミックガールで、変質させられた声とぎくしゃくとした振付をあてがわれている彼女たちは、あらかじめ機械的な演出で売り出されているのだから、抽象的なのは当然ではある。しかし、それだけではない。

 「行動」や「衝動」や「感動」は(「反動」と「反応」がそうであるように)取り替えの聞く便宜的なことばに過ぎず、極端に言えばXやYでもよい。
 歌われているのはむしろ、「行動」や「衝動」や「感動」が「うそみたい」になったり「繰り返し」たり「よみがえる」ことである。感覚の内容ではなく、ある感覚から別の感覚に移動することだけが歌われている。

 となると、どうやら歌詞のポイントは、機械らしさそのものではなく、むしろ移動すること、機械らしさからわずかに身を引き剥がすこと、体温がないことではなく、体温を取り戻すことにあるのではないか。

 たとえば、「ポリリズム」という変則的なリズムにはさほどぐっと来ない音楽ズレした大の大人も、「ああプラスチックみたいな恋『だ』」というフレーズには少なからず心動かされる。少なくともわたしには、この「だ」という言い切りとともに、フラフラと Perfumeファンに落ちていった数万の群衆が見える。

 「まるで恋だね」「うそみたいだね」と、それまでは何度も親しげに問いかけてくる「だね」が、突然「だ」という叙述に変わる。「ああプラスチックみたいな恋『だ』」。そのときに何が起こるのか、しばらく考えてみよう。

 「だね」という語尾は、相手となんらかの体験や知識を共有しているときに用いられる。しかし、中身のわからない「衝動」を、自分ならともかく他人は「あの衝動」と指すことはできない。他人同士で共有できるはずもない。
 そこをあえて「だね」というのだから、この相手は少なくとも他人ではない。かといって、自分ではない。では誰なのか。このような「だね」は、語り手である自分と、聴き手である自分を分裂させて、わたしの中にもう一人のわたしを作り出す。ここにはいない、もう一人の自分が生み出され、わたしはここにはいないわたしに「だね」と言い聞かせる。
 とはいえ、このような、わたしならぬわたしに宛てた「だね」や「よね」といった使い方は、かつて小室哲哉の歌詞にもよく見られたもので、そのこと自体はさほど珍しくない。
 むしろ珍しいのは、「だね」という呼びかけの連続が、突如「だ」と、叙述に裏返るところだ。

 それまでは自分と自分ならぬ者との間で親しく会話を行っていた者が、突然、その関係から身を引き剥がす。自らを叙述の対象として、冷徹に見下ろす観察の視線を得る。
 言葉遣いだけではない。ここまで律儀に拍に合わせて歌われてきた歌は、「恋だ」と歌うとき、「こ・い・だ」とぎくしゃく歌われるのではない。「こ」から「い」に移るとき、メロディは母音の「o」と「i」の間に潜り込み、拍から解放されて「こぉぃだ」と人間らしい響きをまとう。すると声には突然エコーがかかって、三人の「恋だ」に分裂する。それまで伴っていた倍音は失われ、遠く生身の声を響かせて消える。
 プラスティックな関係から微かに生身の感覚が「よみがえ」り、自らを観察する。そのときだけ、自分が生身に帰るような気がする。まるで貧血みたいな恋だ。
 しかし、ようやく観察眼を得たかに見えるこの束の間の生身感覚は、それこそ「ポリリズム」によってはかなくも分断されてしまうのである。

 彼女たちの歌の淡さは、単にこの世の淡さではない。この世から離脱した先もまた淡い。離脱という変化だけが、繰り返し演じられる。作者はそのことを十分自覚して、狙っているらしい。拍の密度を上げては解放し、浮遊感を繰り返し演出するアレンジにも、同じ現象は表れている。