Perfume ”GAME” もしくは貧血と観測(マカロニ篇)

 「マカロニ」は温度の歌だ。

 「見上げた空は高くて だんだん手が冷たいの」と、早くも貧血少女は体温の危機にさらされている。危機にさらされているにもかかわらず、「暖めて」というのではなく、「キミの温度はどれくらい?」と聞いて手をつなぐのである。まるで高熱でうなされながら相手の平熱を測ってやるようなケナゲさである。泣かせるのである。
 いやまて、もしかすると、このヒトは、自分の手が冷たくなることはわかっても、それに快不快を感じることができない存在かもしれない。このヒトはもしかして、ヒトではなく機械なのではないか。

 しかし、機械にしては、何度もワタシに同意を求めるのである。

 「ポリリズム」が「だね」から「だ」の歌だとすると、「マカロニ」は、「よね」から「の」の歌だ。
 
 「いいよね」「やわらかいよね」「いつまでもいたいよね」「ちょうどいいよね」と、語り手は次々と控えめな同意を求める。同意を求めれば求めるほど、同意を求めずにはいられない不安が透けて見えるのである。じっさい、不安どころか「わからないことだらけ」なのである。しかし、なぜか安心できる「の」である。安心できるところだけは一人で合点できるのである。
 大切なのはわかることではなく、コントロールである。機械以上平熱未満。それくらいのかんじが、たぶん「ちょうどいい」のである。

 それにしても、この歌でもっとも謎めいているのは、タイトルを含む以下のフレーズだ。
 「あきれた顔がみたくて時々じゃまもするけど 大切なのはマカロニ ぐつぐつ溶けるスープ」
 なぜ、大切なのは、マカロニなのか。マカロニくらいのやわらかさと温度が重要だと言いたいのか。だとしたら、ぐつぐつ溶かさないほうがよいのではないか。なぜアルデンテではないのか。それとも、マカロニはマカロニとして置いておき、スープは別に作っているのか。だとしたら、ここでぐつぐつ溶けているのはなにものなのか。そして詰まるところ、何がどう大切なのか。

 さらに謎めいているのは、冒頭で「見上げる空は高くて」と歌われているように、この歌が、どうも戸外を基調としているらしいことである。だとしたら、この、ぐつぐつ溶けるスープはどこで眺められているのか。戸外で鍋を囲んでパーティーでも催しているのか。
 いや、マカロニはおそらく、ビデオクリップに挿入されたカットのような、一瞬のイメージショットに過ぎず、かくべつ戸外とは関係ないのだろう。
 それが証拠に、「よね」だらけの歌詞の中で、この部分だけが体現止めだ。

 かつて井上陽水は「都会では自殺する若者が増えている」という新聞記事をくつがえし「だけども」と歌った。「だけども問題は今日の雨 傘がない」。
 社会問題よりも恋人との関係を優先するその歌詞には、当時中坊だったわたしですら衝撃を受けたと記憶している。が、よくよく考えてみると、この歌は、何も世間を無視しているわけではない。少なくとも、記事のありかは「今朝来た新聞の片隅に」捉えられている。今朝という時間があって、記事を「片隅」と見る語り手と新聞とのあいだには、確かな距離がある。

 「傘がない」の確かな時空間に比べると、「マカロニ」という歌の淡さがよくわかる。ここでは、もはや、社会対個人というような対比によって今が歌われることはない。そもそも新聞もテレビもなければ、呼びかける者と呼びかけられる者以外の姿も見あたらない。
 「けど」ということばでくつがえされるのは、「あきれた顔がみたくて時々じゃまもするけど」という自身の行為である。行為をコントロールし、温度を保つこと、そのバランスがひたすら目指される。

 しかしそのバランスさえも、「安心できるの〜」と伸ばされるや否や安定を失い、貧血に出会ったように遠く下降していく。再び貧血少女の危機なのである。

 「最後のときがいつかくるならば」とは、これまでの語り手が言おうとしているのか、それとも貧血少女の見た夢なのかはわからない。ともあれ、このあまりにはかないフレーズは、アイドル自身のはかなさを言い当てるかのように際どい。とても恐ろしくてアイドルの声では唄えそうもない。
 しかし、そのきわどさが危うくかわされているように聞こえるのは、その声が、彼女たち自身の声から変調されているからだろう。生身の声を消し、変声された声をあてがわれた彼女たちは、このかつてない希薄な歌詞世界を、アイドルとして生き延びている。そしてその希薄さゆえに、「それまでずっとキミを守りたい」と思わせる。

 「マカロニ」のPVは8mmカメラで撮影されているように見える。ときおり露出過多で撮影された普段着の彼女たちの姿は、粗い粒子となって揮発せんばかりだ。
 大本彩乃はこの映像が撮られつつある時間をなぞるように、彼女の年代には似つかわしくない、Fujicaの古いカメラを構えている。撮っている側も撮られている側も粗い8mmの世界である。

 別々に撮影されていた三人は、やがて川辺に集い、手をつないで踊る。
 手をつないで踊る場面を見て、マリアンヌ・フェイスフルの「Witch's song」のPVを思い出した。デレク・ジャーマンの撮ったそのPVの中で、どこからともなく集った魔女たちは荒涼たる高みで手をつないで踊る。そこは明るい真昼で、魔女たちは手に手に鏡を取り、あちこちから太陽光を反射させ、明滅する合図をこちらに送る。8mmカメラで撮影されたその光は粗い粒子となって見る者の眼を射た。

 「マカロニ」PVの光は柔らかい。おどろおどろしい魔女の世界はアイドルには似合わない。おそらく、これくらいのかんじがちょうどいいのである。わたしは、ちょうどよくないくらいのほうがいいのである。だから残念ながら、このビデオを見て涙を流したりはしないのである。でも、この徹底した希薄さに、ぐっとくるかんじは、なんとなくわかるのである。曲間のトークに入ったときの、三人の意外に押しの強い生声を聞いて、ああ彼女たちも生きていたのかと、奇妙な「安心」さえ感じてしまうのである。

 最初はメンバーの名前にちなんでつけられたという「Perfume」というグループ名は、いまや、空気中で希薄になっていくその存在を名で表すかのようだ。
 「ってどんだけ?」「ツンデレーション」といった、いかにも消費期限の短そうなフレーズをあえてちりばめた歌詞になぜか違和感が感じられないのも、それらが時流に乗るためのことばではなく、むしろ、この現在がはかなく消えてしまうことのしるしだからではないだろうか。

 「ポリリズム」でも「マカロニ」でも、歌は、機械的で温度のないこの世から身を引き剥がし、体温を得ようとする。しかし、引き剥がされた声に、確かな温度があるわけではない。声は、エコーとなり遠く下降しながら、引き剥がした身の置き所さえも揮発させていく。変化だけのある世界を言祝いでいるようでいながら、じつはこの希薄さを支えてあげたいと想う人情を誘っている。

 それにしても、みんな、「マカロニ」にでてくるのがどんなスープだと思って聴いているか。