「記憶」と呼ばずに「メソッド」と呼ぶ理由

 さて、前回、「メソッド」っていうことばを使いました。この「メソッド」、頭の中にあるものなんだから、いっそ「記憶」って言ったほうがてっとりばやそうな気がしますよね。じっさい、澤井さんや大友さんの話では、ぼくがこの前書いたのとほぼ同じ話を「記憶」ということばを使って語られています。というか、ぼくが彼らの話を読んであとから書いてるんだから同じ話になって当然なのだ。
 で、ぼくは論旨としては彼らにまったく賛成なのですが、「記憶」ということばはちょっとやっかいなので、あえてこれを避けて「メソッド」ということばを使った次第。

 というのも、「記憶」に頼る音楽と頼らない音楽、という風に分けちゃうと、じゃあ、「記憶」に頼らない音楽ってなんだよ、と考えたときに、いささか面倒なんです。極端に言えば、あらゆる時間芸術は記憶から逃れることはできない。
 たとえば、いままでの記憶を全部とっぱらって、いま、この瞬間の一発に耳を澄ますのが目指すべき音楽か、というと、じつはそうは問屋が卸さない。というのも、「いま、この瞬間の一発」というのは、「瞬間」とか「一発」とかいう言葉を使うからなんだか前後の時間を欠いた点のように聞こえますが、それはやはりある時間の長さを持ってるわけで、時間の長さがそこにある以上、それは記憶からも逃れられない。だから、問題は、記憶を排除するかどうか、ではなくて、そこで更新されつつある記憶がどのようなものか、ということだろうと思います。<./p>