鐘の残余

 たった一発の鐘の音にだって記憶は介在しています。それが証拠に、わたしたちは鐘の音を表して「残響」といったり、「余韻」といったりするではないですか。「残」とか「余」というのは、時間の概念です。記憶されたあるものから時間を経て、そのあるものとなにものかの間に連なりを感じながら、なお変わることを感じるときに、その二つの差から生じるものを「残」あるいは「余」と呼ぶ。

 そして、「残」「余」という感覚は、二つのできごとの間に前後を設け、非対称性を設ける。前後のできごとの後から見ると、前とはいま目の前にある「残」「余」から消えゆく前をおしはかるしわざであり、いっぽう前後の前から見ると、後とは自分の意識じたいがその後ろに対する知覚とともに危うくなっていくしわざです。空間にいきなり前と後が、価値等しく置かれるのではない。消えゆく側に立つ自分と、残り余れる側に立つ自分と、この二つの感覚が二つながらに進行していくいまを指して音楽と呼ぶ。
 そして音楽は、その音の肌理の中に、この二つの感覚を織り込もうとするしわざですから、その音の肌理にどのような残余を立ち上げるか、というのが最重要課題になる、はずです。音の肌理がもたらす時間変化を聞きながら、前をむりやり引きはがし、後ろを消し、ひきはがし消したはずの前後を立ちあげてからまとめて消し、という感覚の変化を肌理に沿わせていく。

 だから、20分間のあいだに一発しか音がない曲、というのがあったとして、その曲はもう、圧倒的に前から後ろから記憶に頼っているわけです。一発は一発の前を断ち切り、一発の後は一発を残しながら一発ならざるものに凝ろうとし、その凝る先に会場のきぬずれや戸外のざわめきが混じるとき、残された一発から一発を推し量るその推し量り方もまたきぬずれやざわめきにまぎれていく。もちろん、このような前後への異様な集中はときとして眠りと隣り合わせであり、耳を澄ませている演奏者の目の前で観客がこっくりこっくりと首を傾けることもしばしばなのですが、その観客だって、さっきの一発から引きはがされるように夢に入りながら、一発の肌理を頼りに、眠っている自分から起きている自分に向けて感覚の触手を伸ばそうとしているていどには真剣なわけです。

 しかし、演奏家のしかけた肌理に聞き手が身を添わせるには、肌理を肌理として隅々まで感じることのできる音環境が必要となる。あらゆる周波数の変化を鳥肌のひとつぶひとつぶに変換できるだけの肌理細かな音の知覚を、演奏者と聞き手が欲する場所、そこに「ニュー・メソッド」は立ち上がるはずです。そして、iPodでは、残念ながらまだそのような肌理は再現されない。