AMラジオとスターの悲劇

 とまあ、原音とその原音に迫りきれないもの、という方向からあれこれ考えてきたのですが、ここらでぐっと頭の向きを変えて、原音ではないものの魅力、という方向から考えてみましょうか。
 極端な例として、たとえばAMラジオとiPodを比較してみよう。
 単純に音質、で比較すると、AMラジオとiPodの距離は果てしなく遠く、iPodは原音にぐっと近い、と言えるでしょう。
 ところが、おもしろいことに、AMラジオの音のほうが「肌理」があると思える。なぜか。それは、原音との違いがはっきりしているからではないか、とこう思うわけです。がりがりというノイズでもよいし、もこもことこもった音でもいいのですが、そこにははっきりと、原音ではない音が入っている。そしてその差はAMラジオ的、と呼びうるものです。じっさい、世の中にはAMラジオ風エフェクタというものが存在して、これを通すと、あたかも原音をAMラジオごしに聞いている感じが出ます(ラジオスターの悲劇!)。つまり、もはやAMラジオは、ただのノイズ交じりの音ではなく、ある独特な肌理を持った独自の発音機ということになっている。
 むしろAMラジオの悲劇は、その独特な肌理ゆえに、あらゆるAMラジオから発せられる音が十把一絡げに「AMラジオ風」というくくりでまとめられ、肌理の微細な変化に思いをいたらせるのが難しくなっているという点です。AMラジオは、発せられる音の肌理ゆえに、楽器としても魅力的ですが、それをいかにもAMラジオっぽく演奏したのでは、「ああ、ラジオね」と十把一絡げに納得されてしまう。そして音楽は「納得」ではない。
 AMラジオの肌理とはそんなうすっぺらなつるつるなものではないでしょう。たとえば、わたしたちは、チューニング音のわずかな変化から、自分がいったいどの局に近づきつつあり、それがどのような混線を呼び込もうとしているのかを感知できるのだし、受信良好な局に突如スリップしたときに柔らかくかき消されるノイズにも、山並みをドライブするにつれてその山の稜線が乗り移ったようにぎざぎざと粒だって行くノイズにも、次に起こるであろうラジオの悲劇、いや、ラジオを聞くという行為じたいの悲喜劇を聞き取って胸躍らせているではないですか。
 AMラジオのスイッチを入れる。そして、わたしたちは、「AMラジオ風」などというスレッドの後ろからまとめてコメントするような「メソッド」の使い方から限りなく遠ざかっていく。