音痴シミュレーション、弾けているのに弾けている気がしない

 ところで、菊池氏のとりあげている「デサフィナード」は、じつはそうした名曲集にはほぼかならず収められており、しかもコードがひときわトリッキーな曲だ(その点でも、p98のくだりは、「おおおおおっ」と多大なる共感を抱いて読んだ)。「デサフィナード」ってのは「音痴」っていう意味で、この唄は、音痴が唄っている様子をシミュレートするかのような、ふらふらと足取りの不確かなコード進行を持っている。
 当時、いちおうコード譜どおりに和音を押さえながらも、「この曲ほんとにこんな曲なのか?」という疑問が頭を去らなかった。そのときのぼくの感覚というのは、「知らない曲が弾けた!」というヨロコビよりも、「いちおう理屈のうえではこう弾けばいいんだけど、ぜんぜん弾けている気がしない」というものだった。後にジョアン・ジルベルトの歌う原曲を聴いたときは、曲の流れのあまりのよどみなさに衝撃を受けた

 小学校のときにバイエルの途中で止めて以来のピアノだったので、こういうことを自分で習得するにはずいぶん時間がかかった。逆に言えば、音楽理論も知らず、ろくにピアノが弾けない人間でも、時間さえかければ独習でそれなりに弾けてしまったことになる。こんなことができたのは、そもそも「コード記号」がバークリー・メソッドを元に開発されたものであり、構造がとてもはっきりしていたおかげだろう。いわば、バークリー・メソッドが記号に埋め込んだ理屈をたどるように、コード弾きを身につけてきたわけだ。もちろん当時はまるでそんな自覚はなかったが、今回「憂鬱と官能を教えた学校」を読んで、自分で遊んでいたことの正体がなんだったのか、わかった気がした。
 それは、音楽を一音一音確かめながら作り上げていくことではなく、メソッドに乗ってオートマチックに和音を作っていく作業であり、そのために「弾けているのに弾けている気がしない」という奇妙なことも起こったのだった。
 じつを言えば、こうした素養は、メロディを考えたり、音響に耳を澄ますときにはジャマになることがある。以後、音楽を聴くにつけ作るにつけ、この、オートマチックにコード進行が頭に浮かんでしまうことのツケを、ずっと支払い続けているような気がする