高田和子 Sangen Space No.4「帰ってきた<糸>

 京都造形大学の春秋座で高田和子 Sangen Space No.4「帰ってきた<糸>」。
 高田和子の弾き語りで始まる。弦を弾いたあとにさっと指で触ってこだまを出すところにしびれる。唯是震一「遠野」、とりわけ、二曲目の「おっとーん」。
 「ユーラシアン・タンゴ」は、タイトルがすでに世界を一周している曲。弦楽器の歴史を交錯し直すような既聴感。「箏と打楽器の練習曲No.1」では、箏のアクロバティックな演奏が見もので、両手に爪をつけてしかも縦方向から弾くという珍しい奏法も披露された。ハープを硬質にしたような絢爛たる響き。

 この日の演奏でおもしろかったのは高橋悠治「すががきくずし」で、三弦と太棹の音色の差を用いながら、旋律がばらばらとこぼれながら、それぞれの線に凝ろうとするその動きは目が離せない。同じ風によって異なる種子が蒔かれていくような感じ、同じきっかけに導かれながらそれぞれが別の長さの羽によって舞っていくような感じ、ことばにしようとするほどに失われていく感じ。

 三輪眞弘「占卓と邦楽器のための愛の占い”タアヘルムジク”」は打楽器奏者の進めていく駒によって演奏する音程が決まっていくという「逆シミュレーション音楽」。ただ、彼のいつもの「方法音楽」と異なるのは、役割に非対称性があること。方法音楽では、通常、ルールを実行することがそのまま音楽になっているのだが、この「占卓と・・・」では、まず、打楽器奏者がルールを実行して音楽化するとともに、駒の並びという譜面を作り、その譜面に従って他の奏者が音を出す。だから、打楽器奏者は方法にぴったり寄り添っているれども、他の奏者には譜面を見て演奏するという余裕が生じる。
 そして、結果的には、このおかげで、演奏には従来の方法音楽にはない朗らかさというか、ゆとりが感じられた。演奏家たちが、お互いの撥音に微妙なずれを持ち込む訓練を積んでいるせいもあるのだろうが、ひとつひとつの音の表情が、微妙にずれながら心地よい粒だちで聞こえてくる。
 途中、とつぜん「わたしはうたう。わたしはうたうためにうたう・・・(文言は記憶に基づくので曖昧)」という、まるで昼の連続テレビ小説のような独白が入って、椅子から落ちそうになった。これがただ一回語られる声だったら、たぶん、いわずもがなの唾棄すべき言語化に聞こえたことだろう。が、この声もまた、駒の進行に従って定期的に鳴らされ、そのせいで、コンセプトの言語化というよりは、演奏としてのことばへと質的変化を遂げていく。なんだかレトロ解析の夢でも見てるようだった。

 レトロ解析といえばナボコフなのだが、後半には、ナボコフの「Pale fire」の中の詩編に基づく武智由香「黄連雀」が演奏された。この詩は、見る者があたかも窓ガラスに、外界を透かしながら自室の反映を見るように、世界が二重写しにされている。そして、私は、ガラスにくっついた柔毛を見ながら、世界の境界であるガラスになっていく。外界と反映は、雪によって次第にその重なりぐあいを変えていくのだが、その時間のうつりゆきが三弦の撥音と笙の持続音によって構成されていくように聞こえる。高田さんの声は、文章に柔毛の跡のような(促音のような)ひっかかりを与えて、見る者の仮託する先を指し示す。


私は窓枠の中の偽りの青空に殺された
一羽の黄連雀の影だった
私はちょっぴり(ガラスに)くっついたその灰色の柔毛(にこげ)の跡だった
それから私は
反映の空の中を生き続け、飛び続けていった。
そうして由紀が降り出して
芝生を覆ってゆき、だんだん積もって
椅子やベッドが向こう側のそのクリスタルの国の
雪の上に、ぴたりと決まって収まったときの何という楽しさ
ナボコフ「黄連雀」)

最後は斉藤徹「Ombak Hitam」で、波のような<糸>の合奏。 変則的な編成とは思えない、多彩な音色の演奏会だった。