構えを事後的に構成する

 ひさしぶりに近くの学童保育に行く。ふらりと入って、子供とあれこれつきあううちに、机の上ではまとまらない考えがいろいろ浮かぶ。今日はカメラやノートは持たずに手ぶらで、ボランティアの人たちにまじってあれこれやりとりをする。
 みんなでサツマイモでクッキーを作る。ふかしたイモをクッキー型で抜いて、それをホットプレートの上で焼いて食べる。そう書くといかにも簡単なことのようだが、そう簡単にはいかない。

 たとえば、Aちゃんは、よく笑う、とても愛嬌のある子なのだが、彼女の注意はすぐにあちこちに移動してしまう。クッキーを作る、というときに、まずテーブルの前に何分か座り続ける、というのが、簡単にはできない。イモは珍しい。クッキーの型抜きも珍しい。だから最初にちょっと近づいてはくる。でも、小さなきっかけで「イヤ」といって別の方を向いてしまう。  彼女とつきあうときは、彼女の注意がこちらの注意と一致したときがチャンスだ。たまたまイモを見てくれたなら、それをただ差し出すのではなく、目線を皿に近づけて、「あれー?」と言いながら見る。すると彼女の目線も皿の高さになる。そうしたら「なんだろう?」といいながら、クッキーの型を手にとって近づける。彼女の手が伸びる。そこで、手を添えて、型を押す。彼女の手には強い力は入らない。そこで、イモを押す手応えがわかるように、添えた手に少し力を入れたり、緩めたりする。

 この、わずか10数秒くらいでも、ずいぶん濃いやりとりをしたなという感じがする。

 ほんとうはそのすぐあとに、イモから型をはずして、ヒヨコの形をしたイモがぽんと抜き上がる、というクライマックスがくるはずで、ふつうなら、「あら、ひよこさんよー」などと盛り上がるところだ。しかし、型を押し切ったあと、彼女は、ふーっと息をつくと、もうそばにいるボランティアの動きに注意を奪われてしまっている。型はイモにはまったままだ。そうなると、もう型を押したことと、型からヒヨコが出てくることは、つながらない。
 おそらく、イモの型押しをし終わったまさにそのタイミングで、彼女の注意をうまくナヴィゲートする方法があったはずなのだ。それは表情のやりとりかもしれないし、こちらの視線の方向かもしれないし、あるいはその場の組織化の問題かもしれない。それは、その場その場の遊びの中で確かめていくよりほかない。

 「教室」では、自発的に注意を焦点化することが期待される。子供は、ただ、きまぐれに注意をさまよわせるのではなく、なんらかのイベントがあるのを待ち、待っている間に、教壇なり、ノートなりの上に次のイベントを予感することを期待される。教室ではそのような注意のあり方、もしくは構えがあらかじめ要請される場であり、子供はそうした構えを、ある程度維持する。「多動」というのは、このような構えを期待される場で浮かび上がる逸脱である。

 じっさいには、こうした「構え」が続かない子もいる。そうした子の場合、身の回りで起こるさまざまな内的、外的なイベントが、次々とその子の注意を惹き、そのつど構えが変わっているように見える。その子にただ「構えなさい」といっても、体がついてこない。

 あらかじめ「構え」を期待することで何かを達成してもらうのはむずかしい。かといって、ただ、その子のきまぐれを追いかけるだけでは、やりとりにならない。
 その場で起こる注意の手がかりをうまく時空間に配列させて、「構え」に気づいてもらうこと。ひとつの行為が次の行為を呼び、それがひとつらなりになること、そこから「構え」の感覚が事後的に生まれること、そのような時間の流れを、情動として感じてもらうことが、必要なのだろうと思う。