チェルフィッチュ、指し示しが咲き誇る

 京都芸術センターにチェルフィッチュの「体と関係のない時間」を観に行く。脚本も映像も舞台も見たことのないこの公演をなぜ選んだかというと、昨年のユリイカ「この小劇場を見よ!」特集で、演劇のことばとからだについて、岡田氏がとてもおもしろい論考を書いていたからだ。
 そして、じっさいとてもおもしろかった。これはジェスチャー研究者はみんな見たほうがいいんじゃないか。

 舞台は、小山田徹さんによる、モデルハウスの床のような舞台。床面は全部木で、壁はなく、間取りの手がかりとなる部屋の仕切りだけが設えてある。そこに男二人、女一人が上がる。
 最初に、女性がぎこちなく笑いながら、左手で右腕のひじのあたりをさする。それが妙にこちらの目を惹きつける。そのあと、「こんなふうに」(あるいは「ここ・・・」だったかもしれない)と、指示語から最初の台詞が始まって、文章にならないうちに止んだ。

 もうその「こんな(ここ)」が指し示すものの、思いがけない広がりで、頭がぶわっとなってしまった。

 ふだん、ぼくたちは何気ないことばとしぐさのタイミングによって、指示語の指し示す対象を絞り込んでいる。
 しかし、こんなふうに、そのタイミングを少しずらせたり、中断させるだけで、指示語の可能性は膨大に広がるのだ。「こんな(ここ)」は女性がなでさすっている右腕のひじのあたりのことかもしれない。でも、もしかしたら彼女が立っているそのポーズ全部を指すのかも知れない。いや、彼女が立っている位置のことかもしれない。この三人がいまいるこの家のことかもしれない。あるいは三人がこの家にいること、なのかもしれない。はたまた、この演劇を始めようとしている彼女のことかもしれない・・・

 普段、無意識のうちに束ねられ、確実にある特定のものやことに向かってナヴィゲートされていることばが、ほんの少し体の動きをずらすだけで、まるできつく締め上げられていた花束をほどくように、あちこちに向かって指し示しを始める。逆に体の側も、ことばの軛から離れ落ち、別のことば、別のできごとに向かって指し示しを始める。そんな感覚が、とにかく劇中ずっと続く。このゆるめられた指し示しの広がりは、ときとして狂おしいほどで、そのすべての可能性を追おうとすると気が遠くなりそうだった。

 床だけの家の、見えない架空の壁越しに交わされるまなざし。俳優の独断なのか、舞台外のきしみに驚いたようにふりむく所作(あれは、通常の演劇なら、反応しないところだ)。「ね」という助詞が共有をせまるその幅はどこからどこまでか。「妻」というなまなましいことばは、そこにいる女性が引き受けるものとは限らないのではないか。はたしてあなたはそのトサカのように広げた頭の上の手にふさわしいことばをしゃべろうとしているのか? そして身を少しずつかがめていくこの女性の時間は、彼女の独白の時間とは別の、無意識に支えられてはいないか。などなどなど。

 大谷能生氏の音楽は、情動の動き、ないしはその表現型としての「姿勢」のようなものに感じられた。音楽が切り替わることで、会話の底に伏流している情動のようなものが切り替わる。それは会話の内容を即座に切り替えるようなものではないが、明らかに会話がシフトしたように感じさせる。常々、会話には複数の時系列が同時に走っているということを観察している人間にとって、この感じはとても近しいものだった。

 今回の劇は、他のチェルフィッチュの作品とはかなり違うアプローチだという。とにかく他のものも全部見たい。
  

 上演のあとにアーティスト・トークがあったんだけど、その中で印象的だった岡田氏の発言。このように長い間で隔てられ、あちこち組み替えられたことばを俳優が言おうとすると「イメージを太くしないと言えないんですよ」とのこと。逆に、「イメージを太くして」やると、このことばは間引いてもだいじょうぶだな、というのがわかってくるんだそうだ。
 だから、今度の劇ではすごくことばがずいぶん間遠であちこち入れ替わっているけど、あれは、稽古を通して役者の(そしておそらくは岡田さん自身の)イメージを太くした結果なんだという。

 このところ、ある行為を持続するための感情とはなんだろうということをずっと考えているのだが、そこに「イメージ」ということばを導入できるだろうか。たとえば、ある種の感情を励起したり維持するものとしての「イメージ」、というふうに。