聴き方のメソッド化

 大友さんがユリイカの「ポスト・ノイズ」鼎談の中で、iPodの音が耐えられない、って話を書いてるんだけど、逆に言うと、iPodの音質でも生き残る音楽ってのがいろいろあって、それがiPodに乗っかるんだよなあ。そして、残念ながら、というよりはある種の必然なのだが、たとえば大友さんのanodeはiPodでは聞けない音楽だと思うし、じっさいぼくのiPodには入ってない。しかし、それは聞くに値しない、という意味では、まったくない。
 これは菊池・大谷両氏のバークリーメソッド問題ともかかわると思うんだけど(といいつつじつはまだ彼らの本を読んでないのだが)、メロディとかコードとかリズムとかいう記号がもはや血肉化されてしまった聴者には、iPod音質で満足できる音楽世界というのがあるんだと思う。とりあえずスーパーベースとハイハットのアタックがあって、たどりうる旋律、たどりうるコード、その他音質の劣化をくぐり抜けてくるいくつかの手がかりがあれば、あとは聞く方でなんとかする、別に直接耳をいじっていただかなくてけっこう、てな、聴き方のメソッド化がすでにして起こってる。つまり、再生に必要なメソッドは聞き手の頭の中にあって、聞くという行為のかなりの部分はじつは聞き手の頭の中に依存している、というのが現状だと思うわけです。