メソッドを介することの限界

 原音派全盛時代に比べて、現在のメソッド派全盛時代は、ある意味で、聞き手の頭がよくなってるんだと思う。頭がよくなってるということは、それだけメソッド依存度というか頭脳警察度が高いわけで、メソッドや頭脳警察に乗らない音楽ははじかれてしまう。ところがメソッドが血肉化した人間にとってはメソッドとか頭脳警察というのはもはや無意識に稼働するものなので、自分がなにゆえiPodで満足できるのか、言語化することすらむずかしくなってくる。
 しかしここにきて、どうやらその無意識下で、「なんだか物足りないなー」という感じが来ているらしい。つまり、あるメソッドに従って音楽を聴いてるってのは、じつは頭がいいってことじゃなくて、ごく狭い頭の使い方をしているってことなんじゃないか、ってことにみんなうすうすと気が付き始めている。で、「予習」通りにメソッドを使うことよりも、もはや「予習」を裏切られるときのほうが楽しい、って動きが出てきた。それがiPodシャッフル。
 となると、理屈の上ではその先に「予習が裏切られた瞬間だけでできてる音楽」の世界が広がってるはずですよね? 楽しそうだなあ。しかし、それは理屈の上のことであって、じつは裏切りとは信頼あってのものだねなわけで、予習の裏切り、という感覚は、あくまで予習と、予習がもたらす信頼の果てに存在するものなわけです。だから、裏切ることが新しいことなのではなくて、むしろその裏切りが、どのような信頼、どのようなメソッドの上に成り立っていることか、てのが問題なわけです。