譜面というexpression

 モーツァルト、といえば小林秀雄なのだが、「モオツァルト」「表現について」「蓄音機」を感情論として読み直すこと。確かに感情が揺らされるとき、それは、何をてがかりにしているか。感情が確かに揺れること(リアルなこと)と、「再生」「原音」の質が高いことは同じか。
 彼の「モオツアルト」にしばしば挿入される譜面は、単なる音のかわりというよりも、譜面というexpressionだと思って読んだ方がよくわかる。譜面が、作家の脳漿を圧し潰して得られたexpressionであるなら、それによって確かに感情が揺れることはありうるだろう。

expressionという言葉は、元来蜜柑を潰して蜜柑水を作る様に、物を圧し潰して中身を出すという意味の言葉だ。(中略)古典派の時代は形式の時代であるのに対し、浪漫派の時代は表現の時代であると言えます。常に全体から個人を眺めていた時代、表現形式のうちに、個性が一様化されていた時代に、何を表現すべきかが、芸術家めいめいの問題になった筈がない。圧し潰して出す中身というものを意識しなかった時代から、自明な客観的形式を破って、動揺する主観を圧し出そうという時代に移る。形式の統制の下にあった主観が動き出し、何も彼も自分の力で創り出さねばならぬという、非常に難かしい時代に這入るのであります。ベエトオヴェンは、こういう時代の転回点に立った天才であった。
小林秀雄「表現について」)