歌謡曲と街の灯


 あと、泣けたのは高良さんのビブラフォンで、ときおりバンド演奏の休止符で表われるその響きから、「街の灯」ということばが思い浮かんだ。
 ぼくは歌謡曲というのは「都会のねずみと田舎のねずみ」の話だと思っていて、それは演歌が真正面からふるさとを唄うのに対して、歌謡曲が街を唄うからそう思うのだが、かといって歌謡曲は単に街を礼賛する歌ではなく、かならずその底流に失われた故郷を隠し持っているのであり、その、失われた傷を照らしながら揺らすのがネオンや街灯といった「街の灯」であり、よい歌謡曲では必ずこの「街の灯」という光源と「失われたもの」の影との関係がゆらされている、とも思っている。
 で、ビブラフォンの柔らかな金属音を聞くと、なにやらそうした「街の灯」が点火し(フィラメント!)、その澄んだ音がモーターによってゆっくりと揺らされるのを聞くと、光と影が正しく揺らされる思いなのだ。
 
 最後の「純愛」で気持ちよくずたずたになり、終演後、屋台でCDを手に取る。レーベルの名前は「美音堂」。「びおんど」にYが忍び込んで「Beyond」。今日はYのことだけ考えよう。そそくさと帰路に。バス停に街の灯。