墨の匂いのする教室

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雪沼とその周辺
 一日、大学センター入試の監督。
 試験が始まるたびに監督マニュアルに従って「机に置いてよいものは、H、F、HBの黒鉛筆、消しゴム、鉛筆削り、時計・・・」と繰り返し、「○○しない場合は不正と見なします」と恫喝じみた注意を唱えていると、気持ちが乾いてくる。鉛筆の落ちる音がからからと響いただけで、もう砂漠でオアシスにあったように駆け寄って、うやうやしく拾い上げて机の上に置くと、受験生が微かに頭を下げる。それだけでも、ずいぶん人間らしいことをした気になるのだが、それも一時間のうちに一度あるかないかで、大部分の時間は、一心にマークをつけている彼らを探照灯のようにスキャンしながら、頭の中ではあれこれと考えを飛ばしている。

 本や論文を持ち込むなどもってのほか、唯一、監督者として許されている読書は、問題文を読むことだ。
 今年の国語の問題文は、試験会場に居ながら、ほうっと息をつくような文章だった。現代文の二問目は堀江敏幸の「送り火」で、それは、絹代さんと言う女性が年老いた母親と暮らす古い民家の二十畳の部屋を、書道教室を開きたいという男性にふとしたきっかけで貸す話だった。

 しかし、とりわけ絹代さんを惹きつけたのは、教室ぜんたいに染みいりはじめた独特の匂いだった。子どもたちはみな既成の墨汁を使っており、時間をかけて墨を磨るのは陽平先生だけだったけれど、七、八人の子どもが何枚も下書きし、よさそうなものを脇にひろげた新聞紙のうえで乾かしていると、夏場はともかく、窓を閉め切った冬場などは乾いた墨と湿った墨が微妙に混じりあり、甘やかなのになぜか命の絶えた生き物を連想させるその不気味な匂いがつよくなり、絹代さんの記憶を過去に引き戻した。(『送り火堀江敏幸
 それを読みながら、ぼくはぼくで、小学校の頃、元国語教師だった母の磨った墨で、新聞紙に何枚も字を書かされたときの、墨の匂いを思い出す。それは湿った新聞紙のパルプとインクの匂いと混じって、工作用の紙粘土に水を加えたときにも似た、鼻で嗅いでいるのに手にへばりつくような感覚だった。
 小説の中で絹代さんは、その墨の匂いからなぜか、かつて自宅で飼われていた蚕のこと、白い鹿革のようなその表面のグロテスクな手触りと絹糸とのへだたりを思い出している。
 そしてぼくもまた、かつて桑の葉につく蛾の幼虫を調べるために通った養蚕試験場で聞いた、大量の蚕が葉を食むかさかさという音を思い出す。一匹一匹ではコンタクトマイクでも付けなければ感知できない音なのだが、ずらりと並んだ蚕棚の中で、何千匹もの食事の音が重なると、互いが互いの音の輪郭をあいまいにして、あたかも巨大な生き物の食事が反響しているかのように聞こえる。とてもこの世のものとは思えなかった。
 そしてこの記憶が、じつは、この教室の高い天井から跳ね返ってくる響き、H、F、HBの鉛筆によってマークが塗られていくかすかな音どもの反響とうり二つであることに気づいて、紙を擦ることと植物の繊維を食むことの意外な近さに驚いてしまう。

 絹代さんという名前が絹糸と結びつく。そういえば『河岸忘日抄』の枕木さんの名前は、sleeperと結びついていた。この作家の小説をもっと読みたくなった。

 陽平さんにそれを話すと、墨はね、松を燃やして出てきたすすや、油を燃やしたあとのすすを、膠であわせたものでしょう、膠っていうやつが、ほら、もう、生き物の骨と皮の、うわずみだから、絹代さんが感じたことは、そのとおり、ただしい、と思いますよ、と真剣な顔で言うのだった。生きた文字は、その死んだものから、エネルギーをちょうだいしてる。重油とおなじ、深くて、怖い、厳しい連鎖だね。(『送り火堀江敏幸
 机に向かう受験生を見渡しながら考えるにはあまりに生々しいその生き物のうわずみのイメージにぼうっとしながら、さらに古文の問題を読み進めると、問題作成者たちの微妙な配慮なのだろうか、これまた墨の話なのだ。

 『兵部卿物語』という、聞き覚えのないその話は、主人公の兵部卿の宮とかつての恋人との話だという。その恋人は兵部卿の前から姿を消し(それがどのような理由であったかは問題には書かれていない)、按察使の君と名乗り、右大臣の姫君の女房として出仕する。ところがそうとは知らない兵部卿は、周囲の勧めに従って右大臣の姫君と結婚してしまう。
 按察使の君は、主人があまりに昔の恋人に似ているので、ある日たまらなくなって侍従に尋ねるとまさにその人だと知る。もう自分は居ない者として忘れ去られようとしていたのに、今さら会うのも苦しいと思って過ごしていたある日、姫君とあれこれ紙に書いて遊びに興じる。

 姫君は寄り臥し、御手習ひ、絵など書きすさみ給うて、按察使の君にもその同じ紙に書かせ給ふ。さまざまの絵など書きすさみたる中に、籬(ませ)に菊など書き給うて、「これはいとわろしかし」とて、持たせ給へる筆にて墨をいと濃う塗らせ給へば、按察使の君、にほひやかにうち笑ひて、その傍らに、初霜も置きあへぬものを白菊の早くもうつる色を見すらんと、いと小さく書き付け侍るを、姫君もほほ笑み給ひつつ御覧ず。(『兵部卿物語』)

 つまり、たわむれに描いた垣根に菊の絵を姫君が「これは出来が悪いわ」と濃く塗りつぶしてしまったので、按察使の君は笑って「まだ初霜もおりないのに、白菊はこんなにも早く色変わりしてしまうなんて」と歌に詠んだ、という話なのだが、先の『送り火』で、墨とは、生き物の骨と皮のうわずみで練り合わされたものだ、と読んでしまったのだから、これはまるで、按察使の君のかつての思いが成就することもなく濃い墨でべったりと塗られ、そこからうわずみの匂いが立ち上ってくるのを、自らが「にほひやかに」うち笑っているさまを思い浮かべなさい、と出題者が言っているようなものではないか。

 ところが歌の解釈を問う問題の選択肢は、「描いた白菊を姫君がすぐに塗りつぶしてしまったことに対して、『初霜もまだ降りないのに、どうして白菊は色変わりしているのだろうか』と、当意即妙に詠んだ」とやけにそっけない。「当意即妙」なんてことばづかいは、按察使の君の過去に無頓着過ぎるではないか、とがっかりしてしまったのだが、そんな期待はずれももしかしたら、幻の墨の匂いの産物かもしれない。
 あいかわらず教室にはさかさかと鉛筆が紙を擦る音が響いている。来年、この試験を受けて入ってきた新入生に、墨と鉛筆の話をしようかな、と思う。

チェルフィッチュ、指し示しが咲き誇る

 京都芸術センターにチェルフィッチュの「体と関係のない時間」を観に行く。脚本も映像も舞台も見たことのないこの公演をなぜ選んだかというと、昨年のユリイカ「この小劇場を見よ!」特集で、演劇のことばとからだについて、岡田氏がとてもおもしろい論考を書いていたからだ。
 そして、じっさいとてもおもしろかった。これはジェスチャー研究者はみんな見たほうがいいんじゃないか。

 舞台は、小山田徹さんによる、モデルハウスの床のような舞台。床面は全部木で、壁はなく、間取りの手がかりとなる部屋の仕切りだけが設えてある。そこに男二人、女一人が上がる。
 最初に、女性がぎこちなく笑いながら、左手で右腕のひじのあたりをさする。それが妙にこちらの目を惹きつける。そのあと、「こんなふうに」(あるいは「ここ・・・」だったかもしれない)と、指示語から最初の台詞が始まって、文章にならないうちに止んだ。

 もうその「こんな(ここ)」が指し示すものの、思いがけない広がりで、頭がぶわっとなってしまった。

 ふだん、ぼくたちは何気ないことばとしぐさのタイミングによって、指示語の指し示す対象を絞り込んでいる。
 しかし、こんなふうに、そのタイミングを少しずらせたり、中断させるだけで、指示語の可能性は膨大に広がるのだ。「こんな(ここ)」は女性がなでさすっている右腕のひじのあたりのことかもしれない。でも、もしかしたら彼女が立っているそのポーズ全部を指すのかも知れない。いや、彼女が立っている位置のことかもしれない。この三人がいまいるこの家のことかもしれない。あるいは三人がこの家にいること、なのかもしれない。はたまた、この演劇を始めようとしている彼女のことかもしれない・・・

 普段、無意識のうちに束ねられ、確実にある特定のものやことに向かってナヴィゲートされていることばが、ほんの少し体の動きをずらすだけで、まるできつく締め上げられていた花束をほどくように、あちこちに向かって指し示しを始める。逆に体の側も、ことばの軛から離れ落ち、別のことば、別のできごとに向かって指し示しを始める。そんな感覚が、とにかく劇中ずっと続く。このゆるめられた指し示しの広がりは、ときとして狂おしいほどで、そのすべての可能性を追おうとすると気が遠くなりそうだった。

 床だけの家の、見えない架空の壁越しに交わされるまなざし。俳優の独断なのか、舞台外のきしみに驚いたようにふりむく所作(あれは、通常の演劇なら、反応しないところだ)。「ね」という助詞が共有をせまるその幅はどこからどこまでか。「妻」というなまなましいことばは、そこにいる女性が引き受けるものとは限らないのではないか。はたしてあなたはそのトサカのように広げた頭の上の手にふさわしいことばをしゃべろうとしているのか? そして身を少しずつかがめていくこの女性の時間は、彼女の独白の時間とは別の、無意識に支えられてはいないか。などなどなど。

 大谷能生氏の音楽は、情動の動き、ないしはその表現型としての「姿勢」のようなものに感じられた。音楽が切り替わることで、会話の底に伏流している情動のようなものが切り替わる。それは会話の内容を即座に切り替えるようなものではないが、明らかに会話がシフトしたように感じさせる。常々、会話には複数の時系列が同時に走っているということを観察している人間にとって、この感じはとても近しいものだった。

 今回の劇は、他のチェルフィッチュの作品とはかなり違うアプローチだという。とにかく他のものも全部見たい。
  

 上演のあとにアーティスト・トークがあったんだけど、その中で印象的だった岡田氏の発言。このように長い間で隔てられ、あちこち組み替えられたことばを俳優が言おうとすると「イメージを太くしないと言えないんですよ」とのこと。逆に、「イメージを太くして」やると、このことばは間引いてもだいじょうぶだな、というのがわかってくるんだそうだ。
 だから、今度の劇ではすごくことばがずいぶん間遠であちこち入れ替わっているけど、あれは、稽古を通して役者の(そしておそらくは岡田さん自身の)イメージを太くした結果なんだという。

 このところ、ある行為を持続するための感情とはなんだろうということをずっと考えているのだが、そこに「イメージ」ということばを導入できるだろうか。たとえば、ある種の感情を励起したり維持するものとしての「イメージ」、というふうに。

クールな系統樹思考をホットに語る方法

系統樹思考の世界 (講談社現代新書)

系統樹思考の世界 (講談社現代新書)

 三中さん (id:leeswijzer) の「系統樹思考の世界」(講談社現代新書)を読む。これはとてもおもしろい読書体験だった。なぜおもしろかったかというと、読みながら、読書という時間じたいについて考えさせられたからだ。

 この本は大きく二つのパートに分かれる。
 前半では、さまざまなジャンルの系統樹思考を横断しながら、それらが、帰納法でも演繹法でもない「アブダクション」という推論形式によって支えられていることが明らかにされる。
 間奏をはさんで後半では、とくに生物学に話を絞りながら、発見的探索とアブダクションとの関係が論じられ、さらには、祖先を共有する関係図(分岐図)と、祖先子関係を特定する関係図(系統樹)との問題の違いが明らかにされる。
 コンパクトな内容ながら、生物系統学をはじめ言語学民俗学歴史学などさまざまな分野に広がる「系統樹思考の世界」の基礎を知り、その現状を俯瞰することができる。

 しかし、それだけのことなら(それだけでもたいへんなことだが)、これはよくできた入門書であり、読者はこの入門書を読み切り、この書「を」学べばよい。

 わたしがぐっと心惹かれたのは、クールな系統樹思考を語っているはずの本書に一貫して流れている、あるホットな情動だ。
 はしばしで漏らされる三中さんの生物学徒としての経歴、書物の渉猟のあとが見られる巻末付録、そしてなぜかあちこちに散りばめられたオペラの引用。これらを単に三中さんの趣味の反映と見るのは早計だろう。
 これらはむしろ、数学的にクールに「分類」されうるかもしれない系統樹的思考のバリエーションを、「樹」として物語るために導かれた表現だと思う。

 系統樹的思考を、ただのよそ事としてではなく、自分の研究生活の営みと添わせるとき、語り手は、ただ思考のタイプを分類するのではなく、思考のトークンを紡いでそこに時間の流れを見いだすことになる。そして紡ぎながら、そこに自らの情動の流れを見いだす。
 このような語りに対して読者は「この語りには、なぜこのような情動が流れているのか」と問いたくなる。もちろん、情動の流れを説明できる簡単なことばなどあるわけはない。あるわけはないから、「この情動を駆動している事情はなんなのか」を問いかけてみたくなる。
 とはいえ、自分ではないよその誰かに宛てて書かれたものについて、「なぜ」と好奇心で問うても自ずと限界がくる。その本が読者にとって切実なものとなるには、それが、他ならぬ、読者自身に向けて書かれていること、その情動の流れが、他ならぬ自分に向けられていることが感じられなければならない。つまり「この物語がなぜわたしに向けて書かれなければならなかったのか」という問いが生まれるとき、はじめて読者は、単にその書物「を」学ぶだけでなく、その書物「で」学ぶことができる。

 この本は、単に系統樹思考の基礎「を」学ぶためのものではない。この本では、人が時間の中で何かを物語るとき、つまり系統樹思考によって何かを記述するとき、思わず知らず駆動されてしまう情動が漏らされている。そして、その情動が投げかける謎に導かれて、読者はこの書物「で」学ぶことになる。極めてパフォーマティヴな一冊だ。
 だからこそ、エピローグに現れるトゥーランドットの唐突な引用も、最後に引用される短かい歌も、けして系統樹思考と無縁ではない。そんな風にこの本を/で学んだ。

ライブ「かえるさんと愉快な仲間たち」

kaerusan2006-07-24


虚を突く歌と絶妙のアンサンブルで、この世にまたとない気配を呼び込むBRAZIL(「Coffee」は名盤!)キーボードとトランペットがメロディをクリスプに受け渡すPOPO、この一年でもっとも驚かされた二つのバンドと共演できるとはなんたる幸せかな。

おっさんの肉体にユーミンが宿るかえる目は、約一年ぶりの大阪ライブ。新曲も交えてお送りします。

日時:7月29日(土) 6:00pm〜
場所:workroom ( 大阪市中央区北浜2-1-16 永和ビル6階
tel :06-6222-3888
参加費:予約2,500円、当日2,800円(いずれも1ドリンク付)

出演:かえる目細馬宏通 vocal、木下和重 violin、中尾勘二 clarinet percussion、宇波拓guitar)

BRAZIL(西崎美津子 vocal、稲田誠 contrabass、服部玲治 percussion、西川文章 guitar)

popo(江崎將史 trumpet、山本信記trumpet,synthesizer、喜多村朋太 organ)

http://www.workroom.co.jp/workroom/schedule/ehagaki_kaerumoku.html


workroomは、70年前の中之島公会堂を望む絵はがきを望みながら中之島公会堂を望む、抜群のロケーション。お昼はカフェもやってる親密なスペースです(ちなみにキッシュとカレーがうまい)。29日までは、絵はがき展も開催しております。よろしく。

http://www.workroom.co.jp/workroom/schedule/ehagaki0607.html

本は読むたびに造り直される 松田哲夫「本に恋して」(新潮社)

「本」に恋して 装丁家、造本家の話かと思って読み始めたのだが、そうではない。この本で扱われている範囲はいわゆる「造本家」の扱う範囲を越えて、紙抄(すき)や、束見本づくり、函作り、インキ作りと、本というモノを扱う職人さんの話だ。
 そして、その職人さんの世界の、どこがスゴイかが、内澤さんの見事なイラストレーションとともに浮き上がってくる。その複雑な工程をたどるうちに、目の前の一冊の本が、ほとんど奇跡の産物に見えてくる。

 だって、本って四角くないんですよ、センセイ!
 背中は丸いし、「耳」があるし(ところで、p45の「耳」をぐりぐりやるイラストを見ていると、読む側の耳がこそばゆくなるから不思議だ)、ページの縁だって微妙にRがきいている。表紙の大きさは本文ページの大きさと微妙に違う。カバーや帯をつければ微妙に厚さが変わる。
 この複雑怪奇な、真四角からはほど遠い本という物体が、四角四面の函にみごとに収まる。それも、ぴったりではかえって困る。1ミリもしくは2,3ミリという微妙な「あそび」を残して空気の入るスキマをあけてやらなければ、本は、すぽっ、とは抜けない。そこまで想定した上で、函は絶妙なスキマをとって造られるらしい。
 そんな話を読んでから、書棚の函入り本を見ると、なるほど、上部にミリ単位の暗いスキマが空いている。こんなにしげしげと函のスキマを見たのは初めてだ。あたかも造本のカミサマが籠もっているようではないか。

 「本に恋して」を読んでいると、本作りに重要なのは空気である、という単純なことに驚かされる。
 紙という平面を操作するには紙が空気をはらむことが必要だ。しかし、紙という平面を収納するには空気はじゃまである。そこで、紙は操作にあたっては「さばかれ」て空気をはらみ、造本にあたっては押されて空気を抜かれる。
 目に見えないほどのミクロなレベルでも、紙と空気には微細な関係がある。印刷ずみの紙と紙とが圧着すると「ブロッキング」がおこってくっついてしまう。だから紙と紙の間に微かなスキマを入れてやる必要がある。そこで、「パウダー」なるものが紙にはふりかけられることがあるらしい。そんな、まるでギョウザの皮に小麦粉をふるような技が本にもあるとは知らなかった。

 紙と空気とを巡る技術の数々を読んでいると、ページをばさばさとめくっている読者の手もまた、じつは造本の一過程をなぞり直しているのではないかという思いに襲われる。
 新本の函を振って、耳に指をかけることも、わずかに縁のはりついたページをはがすことも、それをまたぱたんと閉じることも、これすべて本に空気を招き入れ、本から空気を追い出し、本を造り直す行為である。わたしは、ページをめくって本を読むという行為を通じて、本造りをなぞる。読むたびに本は造り直される。
 そんなイメージが、この本を読みながら浮かんだ。これから本を読むたびに思い出しそうだ。

「絵はがきの時代」

絵はがきの時代

絵はがきの時代

というわけで、ようやく出ます。
フォローアップのページ、「絵はがきの時代」補遺:
http://www.12kai.com/pc/